土葬

インターネットの片隅で、壁に向かってシャドーボクシングをしています。

Negicco「愛は光」と理想のアイドル

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 え、いや待って待って、何この名曲。

 バラード曲調に静かなムードのMV(音楽全然詳しくないのでわかんないんですがこういうのバラードって呼んでいいんですか?)。一見するといわゆる「アイドルソング」には思えないこの一曲は、まさに「アイドルの歌」である。

 

 ここからは、どこがどう「アイドルの歌なのか」、歌詞に沿って書いていく。

  あまりに名曲だからすでに言われてることばっかだと思うけど、自分が書きたいので書きます。

 

 

「この舞台から臨むフロアは

 まるで小さな銀河

 サイリウムが儚く揺れてる

 ひしめきあう星の群れ」

 

 アイドルが舞台上から客席を眺めている様子が想像できる、出だしの歌詞である。

 この部分の何がすごいかというと、「サイリウムが儚く揺れ」ている「フロア」を「星の群れ」が「ひしめき合う」「小さな銀河」に見立てている点である。いや、これでは歌詞をそのまま再構成しただけではないか。なので、ここから補足をする。

 ファンの象徴として「サイリウム」を選んでいるところがすごい。ここがサビの歌詞ないしタイトルにつながってくる重要な着想なのだ。ファンの肉体性を捨象し、サイリウムという「アイドルのファン」ならではのアイテムによって詩的な光景を喚起させているのは見事と言うほかない。「儚く」「揺れてる」という語の選択も、幻想性を高めるのに一役買っている。

 そして、この歌詞を引き立てるのがスローテンポで静謐な演奏だ。この歌詞からコンサート中の舞台からの景色ということがわかるのだが、アイドルのコンサートは大体の場合「盛り上がる」ことが基本にあるはずである。つまり、その場の体験としてはダンスや歌、歓声などでドキドキワクワクと動的に繰り広げられているであろうコンサートを、「愛は光」の中では、詞と曲の相互作用によりあたかもスローカメラでアイドル視点のコンサートを回想しているかのような静的な映像として提示しているのである。

 

 

 

「ダイヤモンドも

 ガラスのビーズも

 光があるから輝くの」

 

 ダイヤモンドは、言わずと知れた宝石の王様である。簡単には割れることのないその硬度で有名であろう。対して、ガラスは宝石に比べて高価でもなく、衝撃を加えれば割れてしまう物質だ。日常の生活空間に存在するものでもある。そんな二つの物質の共通点として、「光があるから輝く」ということを歌詞では挙げている。

 自分はNegiccoにわかなので過ぎたことは言えないのだが、この曲をNegiccoが歌っている以上彼女らとは切っても切れないものであると思い、触れようと思う。

 Negiccoは、2003年に結成された新潟在住のアイドルユニットだ。「にいがた観光特使」を務める彼女らは「ご当地アイドル」に分類される。活動こそ全国規模だが、彼女たちは「新潟」という地域に根ざした存在なのである。身近なアイドルと言い換えてもいいかもしれない。

 語弊を恐れずに言えば、彼女たちは「ガラスのビーズ」である。しかし、彼女たちは光を受けて「ダイヤモンド」と同様に輝く。そこが、この歌詞の優れているところなのだ。もちろん、ファンは彼女たちのことをダイヤモンドとして応援しているだろうから、外野があーだこーだ言う筋合いはない。しかし、そんな「ファンの光」こそ、彼女たちが「輝く」源となっているのだということについて、サビの歌詞では紡がれている。

 

 

 

「ああ、わたしが月なら太陽はあなたよ

 光は愛、愛は光ね

 それこそが本当のことです

 ああ、わたしだって太陽

 あなたを照らしたい

 授かった愛を輝きに変えよう」

 

 控えめに言って最高(唐突な脳溶け)。

 アイドル視点の詩であることが出だしの歌詞で示唆されているから、「わたし=アイドル=Negicco」「あなた=ファン」の構図がしれっと成り立っているのも心にくい。ファンからすれば、アイドルが太陽でファンはその光を受けて元気をもらう、みたいなイメージなのだが、この曲では「ファンの愛=光を受けてアイドルが輝くのだ」という逆転現象を提示している。もちろん、この逆転自体は目新しい発想ではない。けれど、Aメロでサイリウム=ファンを星に見立て、Bメロでガラスのビーズが光を受けて輝くという世界観を前提に、サビの最初に「わたしが月なら太陽はあなたよ」と言ってのけるこの構成力、マジでパナい。歌詞でありながらこの論理展開の鮮やかさが「愛は光」の魅力なのである。そして、「わたしだって太陽 あなたを照らしたい 授かった愛を輝きに変えよう」というこの歌詞。ファンに照らされて輝いたアイドルは、その輝きで今度は「太陽」として光りたいと願う。いや、最高の永久機関か??一生お互いに照らし続けてほしい。ここには理想のファン・アイドル関係が描き出されている。

 1番ですでに息切れしそうな勢いで語っていますが、2番もかなりの熱量で話したいので深呼吸を挟みます。吸って―、吐いて―、吸ってー、吐いて―。

 

 

 

「ピンライトが外れたら闇

 時々不安になるの

 でもペンライトで足下を照らして

 寄り添ってくれる人がいる

 大丈夫」

 

 ピンライトというのは言うまでもなく舞台上のアイドルに注がれるもので、それが外れたということは舞台から下りている時ということだ。その間は、まるで小さな銀河のようにひしめいていたファンのサイリウムは眼前からはたと消え失せてしまう。それは物理的な光の消失でもあり、心理的な愛の消失でもある。だから、アイドルは「アイドルとしての自分」が歩むべき道に迷い、不安になるのである。

 けれど、舞台にいない間だって、ファンは彼女たちに「寄り添って」いる。実際の舞台ではなくとも、その存在は「ペンライト(≒サイリウム)」としてイマジナリーな世界において光の花道を照らし出すのだ。ピンライトとペンライトで韻を踏みつつアイドルとファンを対比させているところも、また粋である。

 

 

 

「真珠のように

 時間をかけて

 育んできた夢

 これからも ずっと」

 

 ひとことで言うと1番のBメロに対応しているところがマジで最高です(盲目)。

 ダイヤモンドに引き続き、今度は「真珠」を引き合いに出している。宝石つながりイイネ。「真珠のように時間をかけて」。なんとなくは聞いたことあるけどちゃんとは知らないなと思ったので真珠のでき方を調べてみた。

天然真珠と養殖真珠|MIKIMOTO PEARL ISLAND

 真珠質が分泌されて層状になって成長したものが真珠らしい。分泌、層状、というワードからなんとなく時間かかるってことはわかった(文系脳)。

 ついでにウィキペディアによると、日本は真珠の産地として有名だったらしい。真珠の質量単位は日本語の「もんめ」なんだけど、これはmommeとして国際的にも使われてるらしい。真珠が日本との結びつきが強いってことも、なんか意味をもちそうですね。

 「時間をかけて」というところはNegiccoの活動期間の長さなどにもかかわってくるところでしょう。アイドルごとにもつ「歴史」みたいなものは、あまり外野が言及することではないので詳しくは黙ります。でも、自担グループに置き換えて想像すると「真珠のように時間をかけて」という歌詞には落涙必至ですね(ドルオタ)。

 サビの歌詞は1番とほぼ共通なので割愛します。同じってことも、もちろん意味があるんだろうけどね。

 

 

 

 大サビの最後の歌詞。

 

「授かった愛を輝きに変えるよ

 燃え尽きるその時まで」

 

 「変えよう」という意志から、「変えるよ」という呼びかけへの変化。アイドルの視点で始まったこの曲は、最後にその目線をファンに向ける。輝きに変えるよ、と言われたとき、私達はふっと自らをファンの立場に見出す。

 なんということだ。ありのまま今起こった事を話すぜ。おれはアイドルの視点で世界を見ていたと思ったらいつのまにかファンの視点に戻っていた。アイドルからファンを見ていたと思ったらファンからアイドルを見ていた……。いや、今までだってさんざんサビで「あなたよ」なんて言ってたじゃんって話なんですけど、最後のこの「変えるよ」が一番呼びかけとして““効いた””んです。だから、ここはマジで純粋に個人的な感想です。

 

 

 

 最後に、曲全体について感じたこと。

 この曲はNegicco結成15年目を記念して発売されたベストアルバムに収録された曲である。これまで述べてきたどんな御託よりも、この事実が「愛は光」のメッセージ性を高めているのではないかと思う。

 自分がこの曲に出会ったのは、堀込高樹氏の書く曲と詞が好きだったからで、Negiccoにはそれまで、危険日チャレンジガールズとコラボしたとか、坂本真綾のトリビュートアルバムでプラチナを歌っていたとか、それくらいの認識しかなかった。

 最初は、堀込高樹氏の作った曲ということなら、と思って聴いただけだった。最初は。けれど、この曲は紛れもなく「Negiccoの歌」だった。Negiccoの15年記念でしかありえない歌だった。彼女たちが築いてきた文脈の中でこそ意味をもつものであり、自分などが付け焼刃の知識だけで読み解けるものではないと思う。それでも自分が心惹かれたのは、「Negicco」というアイドルに即した、いわば特殊性を持ち合わせた曲にもかかわらず、「理想のアイドル」としての普遍性を見たからである。

 あなたたちからの光を受けて輝いているのだと言ってくれるアイドル。つらく苦しい闇の中でも、ファンの愛を信じて立ち止まることなく歩き続けるアイドル。燃え尽きるときまで惜しむことなく輝き続けると言ってくれるアイドル。ファンに感謝し、ファンのために輝く。それは、ファンが求める理想のアイドルではなかろうか。

 アイドルは、実際は生身の人間だから、理想通りの姿でないこともあるだろう。だが、たとえ現実の姿がすべて美しくなくても、アイドルは「アイドル」として歌い踊る。アイドルが唄う歌に理想のアイドルが示されていることは、アイドルとしてのひとつの完全性のように感じる。

 「愛は光」を、アイドルを照らしているすべての人に聞いてほしいと思う。

 

 

 

追記

 今日も今日とて聞いてたんですけど「燃え尽きるそのときまで」ってこれも星の比喩を前提にしてるのでは?と気づいた すごい 星が燃え尽きるのにかかる時間なんて気の遠くなるような長さで、いつかは終わるときが来るけれどそれはずっと先だよ、という意味にもなる、たったこれだけの言葉で

 あと星と時間といえば「幾星霜」って言葉があるけどコトバンク先生によると「苦労を経た上での、長い年月」ということらしいからこれもNegicco感がすごい

言葉のカスタムセンス

 組み合わされて使われることのあまりない言葉を合体させると謎の面白さが生まれることがある。

 自分は引きこもりキッズだったころ、ポケモンルビーにハマっていた。この中には、「流行語」という要素があり、用意された語群から2語を組み合わせるとゲーム内でその造語が流行るという仕組みであった。そのときにツボにはまった流行語を今でも思い出す。「うおりゃー かいりき」。感嘆詞のうおりゃーと技名のかいりきが組み合わさって出来ている。

 かいりきを発揮するときはうおりゃーということもあるだろうから、あまり関係のない語でもないのだが、少なくともうおりゃー→かいりきという順序なんかはそれまでに見慣れなかったものと言っていい。

 ところで、世の中には言葉の組み合わせ方が非常に秀逸な人間が沢山いるなあと思う。彼らに編み上げられた表現のなんと心惹かれることか。必要な量に抑えられた描写の向こうに広がる、豊かな情報量。そういう文章に出会うと、しゅごいいいと思いながら半開きの口から「ひょえー」などと言うくらいしかできない。

 ただ単語と単語の組み合わせが新鮮なだけだったら凡百代表の自分にも思いつく。エアコン焼肉とか。でも、ただ関係ないものを足しただけで全然面白くない。部屋で稼働してるものと食べたいものを安直に並べただけだし。

 表現したいことと表現する材料って基本的に見合わない。思考って頭の内側にあるときは順序立ててしたりとか言語化したりとかはしてないから、外側に出すときにうまく変換されない。やりたいことに手段がついてこないのだ。言語はコミュニケーションのためだけに存在しているわけじゃないから、「手段」と表現するのはアレなんだけども。

 作家っていうのは自分の描きたいものを言語っていう制約の中で編み上げようとしているからすごいなと思う。『舟を編む』の中で、辞書は言葉の海を渉るための舟なのだ~~みたいなタイトル回収的なセリフがあったと記憶している。辞書が船ならば人間は船頭のようなものなのだろうが、中でも作家はさしずめ海洋冒険家のような感じだろうか。う~ん、やっぱり比喩が下手。

 言語は膨大なようで有限だけれど、それをうまく編み上げることで無限に思考を表現しうる。憧れるなぁ。サンタさん、今年のプレゼントは語彙と表現力がいいです。いい子じゃない上にいい年こいてるけど、脳みそかっぴらいて待ってます。

オールウェイズ蚊帳の外

 昔、好きで読んでいた『フルーツバスケット』という少女漫画がある。今も多くの人が心に残る作品として挙げているであろう一作だ。

 中でも、魚谷ありさというキャラクターがいる。ヒロインの友人である彼女は、作品の中核である草摩一族をめぐる骨肉の争いからは一歩離れた場所に身を置いている。

 彼女のセリフの中に出てきた「途中参加の人生」というフレーズが未だに頭の片隅に残っている。思い人である草摩紅野に向けての言葉だったと思う。紅野はずっと、草摩家当主のお気に入りとして生きてきた。長く当主のために生きてきた彼の人生にとって、草摩の家のことも彼のことも知らない自分は「途中参加」なのだと、そういうような意味で言っていたように思う。

 何か問題が起きているとき、当事者や関係者は苦しむ。その苦しんでいる姿を見ると、自分はもどかしさを感じる。あ、目の前に「何か」あるのに、自分は助けることを許されていない、と思う。

 高校のとき、吹奏楽部のクラスメイトが数名いた。彼女らと私は普段からそこそこ仲が良かったのだが、時折、入ってはいけない線でも引かれたみたいに彼女たちの中に入っていけなくなることがあった。別に面と向かって言われたわけではない。ここから先は部活の仲間だけの話だよと、立ち入ることを禁じられたように感じることが、ときどきあった。それは自分が単にそれまでの親交しか深めてなかったという理由も多分にあっただろうけれど。

 そもそも自分は基本的にずっと人間関係については「途中参加」だったのだ。元々関係ができあがっているところに添えてもらうことでしかその場にいることができなかった。優しい誰かが付け合わせになることを許してくれる。だから自分はそこに居させてもらえる。

 具体的なエピソードを避けているので上手く言えないのだが、一言で言えば疎外感の話だ。ただそれは、悪意や無関心によるものではなくて、例えばありさが「紅野のこれまで」に干渉することができなかったように仕方のないものなのだ。しんどいのはどうしたって当事者だけれど、当事者の彼や彼女らを救うにはあまりにも身の程知らずな己がもどかしい。あー、なんかうまく表現できない。

 この気持ちなんて表現したらいいのやら。まとまりのある文章を書くってむずかしい。書きたいところだけ書いてるから多分自分にしか意味の分からない文章になってしまう。

 助けたいと思う人が自分では関係性不足なときって、本当にもどかしい。こういうときに、人とのかかわりを作るのが下手な自分が悔やまれる。

 フルーツバスケットのセリフで、もう一つ印象に残っているものがある。「ずっと、そこにいらしたんですね」。ずっと孤独を感じていた慊人がヒロインの透に言われるセリフである。自分がここにいるんだと、隣に座ってくれる人が欲しかったんだと、分かってもらえた慊人はどんなに嬉しかっただろうか。一歩遠い存在としてじゃなく、一緒にいる友人として見出してもらえることの喜びを、自分も少しずつ知っていきたいと思う。

 

 文章が下手だなぁ、でも下手な文章を自慰のためだけに書いても処刑される世じゃなくてよかった。安心してただの黒歴史にできる。5時間後とかに発狂するかもしれないけど、インターネットの人目のつかないところにだったらまぁこっそりと放置しておけそう。

指先ひとつでダウンさ

 絵に描いたような引きこもりデブオタクと化している。

 年末・年始・予定のない週末をくり返した成果か腹囲がだいぶどっしりしてきました。精神もこれくらいどっしりとしたウン段構えになりたい。

 ニートになったらこれが毎日になるのか。となるとただ今のおデブリレベルをはるかに上回るneeter、neetestライフが待っていることになる。心底働きたくないが醜い自分を一生見つめ続けるのは嫌だなぁと思う。もしニートになってもちゃんと外出をしていこう。

 

自己防衛のための自傷行為

 昨日自分が書いた記事を見て「こういうのがイキリオタクなんだよなぁ」って気づいて氏にたくなりました。アデュー。

 

 困ったときに「人に頼ること」を選択肢として知ったけど、それを選ぶ勇気もこの人だったら頼って大丈夫という相手も現実的でないから、結局のところ周りからは学ばない人間だと思われていることだろう。実際、そうなんですけど。

 観察できるあらわれに出ないと結局人からは認められないしそれが当然なんだよな。過程を大事にしようって慰めに使うだけなら本人にとっては無意味なアイデアに成り下がる。結果が出せなくて苦しいのに過程とか本人なりとか逃げ道に思えてしまう。人に対してはそう思わないけど、ダメ人間な自分にとっては「結局何にも変わってないじゃん」としかとれない。まるで成長していない。

 生きている限り上を目指してもっと出来るようにならなきゃいけないと思い込んでいる。というのも常に自分は未熟で何一つ満足にできていないと認識しているからなのだが、現状の自分の力で出来ていることとか人の役に立っていることって何かないんだろうか。向上心をなくしてしまったらそれはそれで人としてダメになってしまう気はするが、「別に成長しようと焦らなくていい部分」ってどこかにないんだろうか。うーん、悩ましい。少なくとも、喫緊の課題に追われていない休日になると家から一歩も出ず、インターネットにかじりついてはかりそめの笑いといわれようもない孤独を支えに時間を早送りしているだけの生活には、「このままでもいい私」などとても見いだせないけど。

 とはいえ気持ちの面だけで言えば別に切実に成長したがっているわけでもない。要するに現状の自分を肯定できないからもっと頑張らなきゃアピをしたいだけであって、本当のところこのままぐうたらとした暮らしを続けてのんべんだらりと生きてゆきたいのである。人に評価されるレベルでないことは自覚しているけれど人に認められたいという相反する情況が底無しの向上心(しかし向上するつもりはない)を生んでいるだけなのだ。

 日本語を使っているのに自分のイメージだけで言葉を選ぶから人に伝わらないままの文章。やはり成長していない。