土葬

インターネットの片隅で、壁に向かってシャドーボクシングをしています。

学校へ行けなかった私が岡田麿里著「学校へ行けなかった私が『あの花』『ここさけ』を書くまで」を読むまで

 この記事は書評でも感想文でもありません

 本を読んで自分のことを話したくなっただけです

 

 

 

 

 

「二十七歳の私は、十五歳の頃の私よりすこしも賢くない。」

 

 映画「言の葉の庭」の登場人物、雪野のセリフである。

この作品は2度ほど見ているが、毎回このシーンでぐっと目の奥が熱くなってのどが苦しくなる。そして、頭の中にいる小学生の自分を思い出す。

 私は、あの頃からすこしも変わっていない。

 

 数日前、大学にある本屋で見覚えのあるキャラクターが視界に入った。地底人、と書かれた赤いTシャツ。目が隠れるほどボサボサに伸びた黒髪。テレビアニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」の宿海仁太、“じんたん”である。

 それから目に飛び込んできた本の題名と、桜色の帯に書かれたキャッチコピーに釘づけになった。値段すら確認しないままその本をレジへ持っていった。

 この本は絶対に読まなければならない、そう運命的な確信が表紙を見てからの数秒で生まれていた。

 

 

 

  本を読んで泣いたことは何度かある。だが、それはページを何十枚かめくったのちの話だ。

 生まれて初めて、本の目次を読んで涙がこぼれた。

 各章から印象的な部分を3行ほど抜き出して並べ、それぞれの章にタイトルがつけられたシンプルな目次。初めて見るはずのその言葉たちを、私は知っていた。

 

「誰に挨拶したらいいかわからない」

「一日、一日が消えていく」

 

  編まれた文には確かに初めて触れるはずなのに、それを生み出す語彙に、単語のもつ温度に、ひどく覚えがあった。学校へ通うようになってから忘れていた感覚。夕暮れに沈む部屋の暗さ、ていねいに手入れされた布団の匂い。毎日脳内を占領していた「罪悪感」というワード。

 プロローグに記された「あの頃と何も変わっていない自分」というフレーズに視線を奪われながら、私は何も知らないはずの岡田麿里という人をすでに同族だと認識し始めていた。

 

 

 

第一章「学校の中の居場所」

「私には、登校拒否児に必須の要素が足りなかったのだ」

「未来の屈辱に動けずにいた」

「辛い未来を先回りして想像し、勝手に恐怖をつのらせてしまう」

 

 自分はわがままな性格だ。やりたいことはやれなくちゃイヤ。やりたくないことはやりたくない。“それってなんかダサくない?”と最近聞いた楽曲の歌詞がグサリと胸を刺してくる。

 何がきっかけだったかも覚えてない。覚えてないくらい些細なことから、私は幼稚園に行かなくなっていた。だってなんか行きたくないんだもん、くらいの気持ち。「社会不適合者」という単語を知るよりずっと以前に、私は自分が社会不適合者であることに気づいていたのだと思う。昼間の園内でみんなと遊んだ思い出はほぼない。未だになぜか覚えている「昼間の教室」の記憶は、給食のときに「今日うちと遊ぶ人ー!」と幼児特有の唐突な募集をかけていた女子に対して、ごはんで口をいっぱいにしながら必死で挙手で訴えたという謎のもの。結局、その日その子と遊ばなかったと思う。

 記憶の中の幼稚園には、子どもがいない。たまに、大人が数人。子どもたちが大勢走り回れそうな広い運動場も、夕暮れになってしまえばがらんどうだった。1か月分の日数も通った覚えのないその場所に、愛着がないわけではなかった。「私の卒園式」は、卒園式が終わったあとの寒々とした講堂で行われた。幼いながらに、どうして卒園させてもらえるんだろう、と不思議に感じた。

 

 小学校に上がったら普通になる、なんてことはなく、バッチリ小学一年生から不登校児デビューを決めていた。「幼稚園なんて遊んでるだけでいいじゃん」「小学校低学年なんて人間関係の難しさないでしょ」なんて台詞も今なら吐き捨ててやりたいものだが、そうもいかない。

 漠然とすべてが嫌だったのだ。

 狭い田舎。閉塞的な教室とクラスメイト。私は周りからどう見られているのか。「変な子」が叩かれる恐ろしい空間で自分がいつその対象として見出されてしまうのか。いじめられて学校に行けなくなる「対処としての不登校」ではなく、いじめられる前に学校に行かなくなる、「予防としての不登校」。年齢が2桁にもならなかったあの頃、私はいじめられないために学校へ行くのをやめたのだ。

 

 ここまで自分語り乙としか言いようのない文章を並べ立ててきたが、ここでようやく本の内容に触れる。

 項の冒頭に引用した3つのフレーズ。私はこの言葉たちに出会うのを待っていたのである。教室へ通っていなかったおよそ8年ほど、私はずっと自分を呪っていた。

 

「いじめられたわけでもないのに不登校を続けているなど、お前はなんてずるいやつなんだ」

「いじめられたくないがためだけに、いろんな大人に迷惑をかけて家でのうのうと現実逃避しているなんて、最低だ」

 

 学校に行っていなかった頃のことを思い出そうとすると、晴れていたはずの日ですら曇り空でしか蘇らない。春も夏もあったはずなのに、自分は秋と冬ばかりを巡っていたような錯覚に囚われる。同級生とうまくやれない未来しか見えなくて、己がかわいさゆえに学校を休み続けた。私より苦しい学校生活を送っている児童は日本全国にきっとたくさんいるはず、そのこともチクチクと苛んできた。

 私がいつ学校へ戻っても大丈夫なように給食費を払い続けていたであろう親。我が家の恵まれた経済状況とどこかにあるはずの貧しい家庭、いつも1食分あまる給食とそれを食べる顔もわからないクラスメイト……脳内をめぐる様々なイメージと、わかっていながら学校へ行かない自分。

 

「投げかけられるであろう言葉を想定して怯えていた」

 

 自らの臆病さと利己主義を呪っていた頃、そんなことを人には言えなかった。今だって、隠していたい気持ち。

 この本を通して岡田は、自分のずるさ弱さを取り繕わず、羞恥で身体が熱くなるような葛藤を、そのまま言語で捕捉して、文章に表していた。学校へ通うようになってから数年が経って、ようやくあのころ探し続けていた光明が胸の内に射した。私がずっと読みたかったこの本は、一体いつ出版されたのか。奥付を見る。

 

 二〇一七年四月十五日第一刷発行

 

  たった1週間ほど前の日付が記されている。

 本屋に行くまで存在も知らなかった本に対して、「やっと出たのか」と肩を落とした。

 

 

 

 

 

 

 第二章以降については、気が向いたら