土葬

インターネットの片隅で、壁に向かってシャドーボクシングをしています。

自己防衛のための自傷行為

 昨日自分が書いた記事を見て「こういうのがイキリオタクなんだよなぁ」って気づいて氏にたくなりました。アデュー。

 

 困ったときに「人に頼ること」を選択肢として知ったけど、それを選ぶ勇気もこの人だったら頼って大丈夫という相手も現実的でないから、結局のところ周りからは学ばない人間だと思われていることだろう。実際、そうなんですけど。

 観察できるあらわれに出ないと結局人からは認められないしそれが当然なんだよな。過程を大事にしようって慰めに使うだけなら本人にとっては無意味なアイデアに成り下がる。結果が出せなくて苦しいのに過程とか本人なりとか逃げ道に思えてしまう。人に対してはそう思わないけど、ダメ人間な自分にとっては「結局何にも変わってないじゃん」としかとれない。まるで成長していない。

 生きている限り上を目指してもっと出来るようにならなきゃいけないと思い込んでいる。というのも常に自分は未熟で何一つ満足にできていないと認識しているからなのだが、現状の自分の力で出来ていることとか人の役に立っていることって何かないんだろうか。向上心をなくしてしまったらそれはそれで人としてダメになってしまう気はするが、「別に成長しようと焦らなくていい部分」ってどこかにないんだろうか。うーん、悩ましい。少なくとも、喫緊の課題に追われていない休日になると家から一歩も出ず、インターネットにかじりついてはかりそめの笑いといわれようもない孤独を支えに時間を早送りしているだけの生活には、「このままでもいい私」などとても見いだせないけど。

 とはいえ気持ちの面だけで言えば別に切実に成長したがっているわけでもない。要するに現状の自分を肯定できないからもっと頑張らなきゃアピをしたいだけであって、本当のところこのままぐうたらとした暮らしを続けてのんべんだらりと生きてゆきたいのである。人に評価されるレベルでないことは自覚しているけれど人に認められたいという相反する情況が底無しの向上心(しかし向上するつもりはない)を生んでいるだけなのだ。

 日本語を使っているのに自分のイメージだけで言葉を選ぶから人に伝わらないままの文章。やはり成長していない。