土葬

インターネットの片隅で、壁に向かってシャドーボクシングをしています。

オールウェイズ蚊帳の外

 昔、好きで読んでいた『フルーツバスケット』という少女漫画がある。今も多くの人が心に残る作品として挙げているであろう一作だ。

 中でも、魚谷ありさというキャラクターがいる。ヒロインの友人である彼女は、作品の中核である草摩一族をめぐる骨肉の争いからは一歩離れた場所に身を置いている。

 彼女のセリフの中に出てきた「途中参加の人生」というフレーズが未だに頭の片隅に残っている。思い人である草摩紅野に向けての言葉だったと思う。紅野はずっと、草摩家当主のお気に入りとして生きてきた。長く当主のために生きてきた彼の人生にとって、草摩の家のことも彼のことも知らない自分は「途中参加」なのだと、そういうような意味で言っていたように思う。

 何か問題が起きているとき、当事者や関係者は苦しむ。その苦しんでいる姿を見ると、自分はもどかしさを感じる。あ、目の前に「何か」あるのに、自分は助けることを許されていない、と思う。

 高校のとき、吹奏楽部のクラスメイトが数名いた。彼女らと私は普段からそこそこ仲が良かったのだが、時折、入ってはいけない線でも引かれたみたいに彼女たちの中に入っていけなくなることがあった。別に面と向かって言われたわけではない。ここから先は部活の仲間だけの話だよと、立ち入ることを禁じられたように感じることが、ときどきあった。それは自分が単にそれまでの親交しか深めてなかったという理由も多分にあっただろうけれど。

 そもそも自分は基本的にずっと人間関係については「途中参加」だったのだ。元々関係ができあがっているところに添えてもらうことでしかその場にいることができなかった。優しい誰かが付け合わせになることを許してくれる。だから自分はそこに居させてもらえる。

 具体的なエピソードを避けているので上手く言えないのだが、一言で言えば疎外感の話だ。ただそれは、悪意や無関心によるものではなくて、例えばありさが「紅野のこれまで」に干渉することができなかったように仕方のないものなのだ。しんどいのはどうしたって当事者だけれど、当事者の彼や彼女らを救うにはあまりにも身の程知らずな己がもどかしい。あー、なんかうまく表現できない。

 この気持ちなんて表現したらいいのやら。まとまりのある文章を書くってむずかしい。書きたいところだけ書いてるから多分自分にしか意味の分からない文章になってしまう。

 助けたいと思う人が自分では関係性不足なときって、本当にもどかしい。こういうときに、人とのかかわりを作るのが下手な自分が悔やまれる。

 フルーツバスケットのセリフで、もう一つ印象に残っているものがある。「ずっと、そこにいらしたんですね」。ずっと孤独を感じていた慊人がヒロインの透に言われるセリフである。自分がここにいるんだと、隣に座ってくれる人が欲しかったんだと、分かってもらえた慊人はどんなに嬉しかっただろうか。一歩遠い存在としてじゃなく、一緒にいる友人として見出してもらえることの喜びを、自分も少しずつ知っていきたいと思う。

 

 文章が下手だなぁ、でも下手な文章を自慰のためだけに書いても処刑される世じゃなくてよかった。安心してただの黒歴史にできる。5時間後とかに発狂するかもしれないけど、インターネットの人目のつかないところにだったらまぁこっそりと放置しておけそう。