土葬

インターネットの片隅で、壁に向かってシャドーボクシングをしています。

「普通」は幻想である―原宿の女王と電子の歌姫

 人間は必ず3つの山のうちどれかに属するという話を聞いた。

 3つの山の名前は、ADHD型、ASD型、LD型だという。現在、アルファベットで略されているこれらは、「発達障害」と呼ばれる発達上の偏りを指す。

 以下、本の受け売りのつもり。誤解などあったらゴメンね。

 『子どものための精神医学』によれば、人間の精神発達は「認識(社会的・文化的な意味の理解)」と「関係(周囲の人々と対人関係的・社会的にかかわること)」の二軸でとらえることができるという。この二つは互いに支え合いながら進んでゆき、発達はこれらのベクトルとしてあらわれる。発達の分布を模式図にしたとき、社会的平均の中央部に密集している群は「定型発達」と呼ばれる。要するに「普通の人」である。そこから一定以上外れたところにいる人々を「発達障害」ととらえる。

 この本では、平均よりも「認識」の発達におくれをとる群を「知的障害」、「関係」の発達におくれをとる群を「自閉症スペクトラム」と呼んでいる。また、自閉症スペクトラムの中でも、認識の発達の違いにより、アスペルガー症候群高機能自閉症自閉症、という風に従来の呼び名を記している。

 自分がこの本を読んで(まだ読みかけなんだけど)一番印象的だったのがこのように二つの軸で精神発達をとらえるモデルだ。なぜかというと、これまでは「普通の人」と「発達障害をもつ人」がその“あらわれ”により線引きされているイメージだったのが、このモデルでは定型発達と発達障害が同一平面上にとらえられていたからである。

 「自閉症スペクトラム」という呼び名ができたことで、発達障害の領域において連続性をみとめる発想にはなじみができたものの、未だに定型発達と発達障害の間には厳然たる壁がそびえたっていると感じていた。しかし、この二軸モデルではすべての発達を連続的に捉えている。一読者としての意識の問題かもしれないが、これは画期的な考え方だと思う。発達障害をもつ人とのかかわりを再考する見方にもなろうし、逆に、定型発達の人の抱える“偏り”を考える際の一助となるだろうからである。

 

 さて、話を本題に戻そう。こうした捉え方をふまえれば、人間が必ずADHD型、ASD型、LD型のどれかに属するという考えも納得がいく。基本的に「普通」なんだけどどこかそそっかしく集中力に欠ける人もいれば、社会で生活できているけれど妙に細かいことを気にし対人関係に悩んでいる人、前述の項目には当てはまらないけれどなんだか文字を読むことが不得手である……などなど様々なケースが想定できる。もちろん、これらの例もまだ極端な話で、実際には違和感すら覚えない“偏り”である可能性もある。

 突き詰めれば、「普通の人間」など存在しないのではないかと思う。人間にあるのはあくまで「平均」であり、「普通」という概念は社会的・文化的なスタンダードに合わせて大多数の個人が自らをチューニングすることにより生まれているに過ぎないのである。

 

 きゃりーぱみゅぱみゅの「もんだいガール」という曲がある。自分はふだん彼女のことを名前を発音しにくいカワイイ子というくらいにしか思っていないのだが、この曲だけは異常に好きだ。なにしろ、歌詞が良いのだ。出だしの歌詞が特に秀逸である。

 

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だれかを責めるときには

「みんなとちがう」というけど

毎回「みんな」にあてはまる

そんなやつなんているのかよ

 

 一見すると当たり前のことを極めて平易に表現しているようだが、なんと本質をとらえた一節であろうか。

 彼女ほどの市民権と知名度を誇る存在が、このように生きづらい人間を救済するかのような詞を、キュートな声で唄いあげていることは革命にも似ている。だから、一種の麻薬にすらなりうる。自分はこの歌詞を聞きたいがために「もんだいガール」を聞く始末である。

 「そんなやつなんているのかよ」という挑発的な言い方は、変わり者として生きてきた者の溜飲を下げてくれる。このあと、サビにおいても「普通になんてなれないでしょ」と開き直ってみせる姿勢も“痺れる”としか言いようがない。

 

 もうひとつ、「普通」と「変」を考えるときに聞きたい曲がある。ピノキオピーの「シックシックシック」だ。

 

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 ボカロ曲です。すいませんね、“コテコテ”で。この話の流れで、となるかもしれないが、この曲で間違いないです。これは「生きづらい人」向けベストテン(自分調べ)に入る一作。

 

お前ら 一切合財 シックシックシック

あっちの言い分じゃ ぼくがシックシックシック

 

 「変な人」から見たら「普通の人」だって変なのだ。けど、「普通の人」からすればやっぱり自分は変だってことも知ってる。変な人は尊敬されるか嘲笑されるか、いずれにしても「普通コミュニティ」からは疎外されてしまう。そんな怒りと哀切が入り混じる感情が「お前ら一切合財」という乱暴な表現を導き出しているのではなかろうか。

 この曲、「ザ・ボカロ」といわんばかりの漢字多いゾーンなどもあるのだが(ボカロ曲によるボカロ曲のパロディなのかもしれないけど)、「もうちょっと器用に生きれたらいいのにな」「もういっそ孤独が薬ならいいのにな」といった、ある種の人間にはザクザク胸に刺さるフレーズがあり、持ち前の不器用さから孤独を友としている自分などはこの辺りで骨抜きにされた。

 この曲も、最終的には「もうみんな病気だよ」と全員が狂っているのだという示唆にたどり着く。

 人間なんてみんなヘンなのである。もちろん、ヘンさが際立っている人もいれば目立たない人もいるから、普段は「変な人」と「普通の人」とは線引きがなされているのだが。

 一応弁解のために(誰に向けての?)書いておきたいのだが、これは「常識」とはまた別の問題である。常識とは社会的文化的やりとりの中で同一集団内で守られてきたマナーであり、その秩序を乱すことまで肯定したいわけではない(おかしな"常識"もあるんだろうけど)。

 

 いささか記事に尻すぼみ感が出てしまうが、書きたいことをあらかた書いてしまったので最後に祈りだけ捧げておく。

 毎回「みんな」に当てはまるそんなやつなんていないし、もうみんな病気なのだから、変とか普通とか、そういうことで溝ができない世界になればいいのに。

 

 まあ、こんな風に普通とか変とかにこだわる自分が、いちばん溝を作っているのだろうけど……。