土葬

インターネットの片隅で、壁に向かってシャドーボクシングをしています。

B&S

 自分の中の何かを殺さないと変わることなんてできないと思った。今の状態にプラスでいい方向にプラスアルファをくっつけようとするんじゃなくて、今あるものを壊して、そこに新しいものを建て直さないと。足し算だけでは上手くいかない。前向きな引き算を出来るようになろう。もしかしたら、自分は「何もかも足りない」わけじゃなくて「どこかしらが多すぎる」のかもしれないから。

 吸収することは大事だけど、吸収したものをうまく消化できなくて、それでパンクしてしまっている気がする。胃もたれが起きたら胃薬を飲むような暮らしをしてきたけれど、食べるものやその量を見直してみよう。「そもそも」の部分を、少しだけでいいから考え直してみよう。対症療法だけでなくて、たまには予防をしてみよう。今までとにかく成り行き任せの頑張りばかりだったから、起こっていることへの対処法を知りたいと思っていたけれど、根元のところをどうにかできる力が欲しい。枝葉末節を剪定するくらいならまだ、と思っていたけれど、結局それってなんだかずっと変わらないままのような気がしていてシンドイ。

 自分の中の当たり前をちょこちょことでもいいからいっぱいひっくり返してみたい。「自分」を転覆させてみたい。あるいはそれは、とても危険な企てかもしれないけど。安定は崩さないままで、変えたくない自分は残したままで、今まで「いいや」にしてきたことを、全部、どうにかしてやりたい。今から思えばブログをできるだけ「続けて」みようと決めたのもそのひとつだったのだ。文章を長く書くのが苦手な自分が、物事を継続することが出来ないはずの自分が、狭い世界に閉じこもって広い外界に発信できずにいる自分がなんだか急に悔しくなったのだ。

 みんな、普通にやってることが急に、羨ましくなった。年明けに、ソシャゲを新しく二つも始めた。今まで「俗っぽい」「普通の人がやること」「自分には続かない」などと敬遠していたことでも、とにかく輪に入ってみたかった。そのコミュニティに、自分も「属している」と思いたかった。世間の仲間に入りたかった。

 自分だって人と関わりたい、人に好かれたい、人に認められたい。みんなと「同じ」に、「自然な人」になりたい。どれだけ子どもっぽくて、浅はかで、薄っぺらい感情だとしても、この二十余年、ずっと腹の底で煮込んできた思いの悪臭に、自分はもう知らん顔で蓋をしておくことができなくなった。今まで、内心で適当な理屈をつけてこき下ろすことで我慢していた世界に入っていきたくなってしまった。自分の声を誰かに聞いてほしい。もう、ひとりで自分と話すのは嫌だ。

 今年に入ってから薄ぼんやりと頭にあったそんな思いが、町田康先生の『生の肯定』を、頭から28ページくらいまで読んだことで爆発してしまった。あ、なーんだ。別に、いいんじゃん。今からだって自然に生きようとしたって、いいんじゃん。求めていた言葉が、求めていた人柄によってもたらされた気がした。町田先生、すみません。残りもちゃんと読みますから。

 

…(前略)…恥ずかしくない生き方ができるだろうか。

 余はできないと思う。なぜなら人間という生き物の根底にそうした恥ずかしいものが間違いなくあるからで、それがなくならない限り、必ず恥ずかしい言動に及んでしまう。

 (中略)

 つまり生の方向へ向かう、ということは、この恥ずかしさを丸ごと認めること、つまり欲望の肯定なのだ。

 

 生きることにはどうしたって恥が伴う。その恥を避けようとすることはつまり、生を避けることにもなる。しかも、避けようとしても恥を避けることはできない。むしろ、避けようとするほど恥の方から自分を追いかけて来るきらいすらある。生から逃げ出したゆえに、生に追いかけられている。それならば、いっそ開き直って生きようとすればいい。追いかけられるのではなく、自ら向かってゆけばいい。

 自分はこれまで、恥をかくことをおそれ続けていた。思い返せば、幼稚園に行きたくなかったときにも、小学校から遠ざかったときにも、中学校から逃げ出したときも、その心はずっと自分を呪縛していた。いつも、漠然と、早く死にたかった。自分も人間になりたかった。こんな刺すか刺されるかの世界から解放されたかった。そんな気持ちから、むやみに厭世的に振る舞おうとしていた。何にも心を乱されたくない、動じたくないと、漱石が晩年掲げたという「則天去私」に理想を見出そうとすらした。

 泰然自若と生きられる器ならば、あるいはそれを目標としていたってよかったのかもしれない。でも、自分はどうしようもなくちっぽけで本当にどうしようもない人間だ。俗に染まることへの憧れと絶望を天秤にかけて恥から逃げられる「カッコイイ」生き方を求めていたけれど、知らん顔をするのはもうやめた。健全にいこう。のたうち回ってやろう。バカみたいに楽しんで、ゴミみたいに苦しんで生きてやる。

 それこそ、「普通の人」のようにはいかないかもしれないけれど。最終的にたどり着いたところが「笑って泣いて全力で生きよう」なんて陳腐な、今までの自分が蛇蝎のごとく嫌っていた人生論だなんて、悔しいけれど。根本的な自分の性質まで変えようと思っているわけではないから、まあいいか。

 エニエスロビーで、囚われの身のロビンがルフィに向かって「生きたい」と叫んだように。自分もいまようやくと産声を上げたところなのだと思う。

 

 いつもなら、こういうことをつらつら書いたあとだとうわ~~こんなん後で見たら恥ずかしすぎるヤバイなどと思うのだけど、今は未来の自分にこの記事を「黒歴史」だなんて笑ってほしくないと思う。