牙
桃を買った。
食べごろの、よく熟れた桃だった。独り占めならではの食べ方が良いと、丸かじりに決めた。
柔らかな果肉に歯を立てる。皮が破れ、中から果汁が迸る。むしゃむしゃと音を立て、透明な雫が滴り落ちてくるままに貪り食った。果肉の厚みはさることながら、やけに皮の美味い桃であった。たわいもなく破り去られる強度とは裏腹に、噛みごたえがあり、甘みも強かった。
調子に乗ってかぶりついていると、たちまち酸味の強い種にぶち当たる。ここまでたどり着くと物悲しい気分になった。先程までの妙に昂奮した、獣のような衝動はどこへやら、身を削られに削られ変わり果てた姿となった一片の果実に、哀悼の意が表れていることに気づく。
ああ、自分が取りつかれていたのは食欲ではなかったのだ。
確かに美味い上等な桃であった。けれどもそれはケダモノに成り下がっていた理由として不十分だとわかる。
自分はおそらく、何かに危害を加えたくて仕方がなかったのである。そしてその何かとは、無力で小さく柔らかな肉体をもち、かつ傷つけたことに罪悪感を生じさせないような性質を兼ね備えていなくてはならない。
果肉が、果汁が、あと少しでも赤かったら、と想像するとぞっとする。桃にかじりついた瞬間を思い出す。肉食獣となった己が、かよわい人間の皮膚に牙を突き立てる。その人間の正体が他ならぬ自分自身であることが判り、ひどく安心した。
掌の上に残されたままの桃を、勢いよく口に運ぶ。