土葬

インターネットの片隅で、壁に向かってシャドーボクシングをしています。

鶏が先か卵が先か

 相互作用。二つのものが互いに影響を及ぼし合うことである。

 自分は普段アルバイトで善良な中高生に英語もどきを教える講師まがいの行いをしている。英語といえば「文法」と「長文」の二大巨塔が天高くそびえたっているという印象だと思う。単語とかイディオムとかもいっぱいあるけど、少なくとも個人的にはその二つが英語を勉強する際に横たわっていたように感じる。

 

 この「文法」と「長文」だが、英語が苦手な人はどうも切り離してとらえる傾向にあるのではないかと自分は考えている。こんな偉そうな風に主張しているが、それすでに英語教育業界では常識だから~~~!!とIKKOのような架空の英語プロが後ろ指をさしている妄想に囚われている。でも、人がそう言ってたのを見たり聞いたりしたことは浅学ゆえ今のところないので許してにゃん。

 まず「文法」なんですけど、英語が苦手な人は文法を嫌ってる印象。いや、それらしいこと言ってっけど英語が苦手な人は長文も嫌いって言います。でも、ほんとに文法とかwwって人が多いような気がする。個人的には文法がいちばん好きです。

 文法って中学校で習う範囲くらいだったらパズルみたいなものだなと思う。いくつかの基本的なルールに従って、前後の語に合わせておくべき場所に語を置いていくだけのことなので。例えば、主語のところには名詞(または名詞扱い)のものしか入らないし、述語のところには助動詞と動詞くらいしか入らない。みたいな感じに子どもには端的に説明したいので、動詞の前に副詞が割り込んでくる制度は嫌いです(何様なの?)。

 あと、文法の説明をするときに自分は「SVOC」「品詞」を使わずにいられないんですけど、これらが苦手な生徒がけっこういる。学校ではあんまり勉強しないんですかね?自分は中1の初め1,2か月だけは行ってたんだけど、その時期には聞いた覚えないなぁ。学校戻って気づいたら先生が説明にSVOCを使ってたような。もし私が英語をイチから教えるなら品詞について真っ先に教えるけどなぁ。まあ、最初から堅苦しい話をして生徒に苦手意識をもたせたくないというのはわかる。なんか学校の授業って古文とかで顕著だけど「最初は親しむところから」っていうの好きな感じだし。親しむところから、とか言い出すから結局親しみきれないんじゃないのかとも思うけど……話が脱線しているので戻ります。

 「文法」って名前の通り文を作るときのルールのことなので、この中には様々なルールがある。例えば、「(基本的には)主語述語の順番に並べるよ」とか「助動詞の後ろに置く動詞は絶対に原形だよ」とか。さっき書いた主語には名詞とかが入るよ、みたいなのも多分そう。多分って言うのは自分が英語の教育方法についてプロに教わったことがないからです。それなのにこんな偉そうにブログ書いてるの?となっちゃうのだが、残念ながらこういう考え方でテストとかは良い点を頂いていたので間違ってないと思う。

 逆にルールさえおさえちゃえば文法って難しくない。なぜなら、先に学んだルールは大抵の場合その後の文法事項に進んでも保持されていくから。例えば、助動詞のルールは受動態の文を作るときにも発揮される。基本のルールがあるからにはその例外もあるんだけど、大体は例外の場合もルール化されてるから、対にして覚えちゃえばいい話だし。

 文法が好きなので文法についてすごい書いたけど、長文はそんな書くことないな。長いし。読むの疲れるし。読めば内容は面白いんだけどね。個人的には英語の長文に触れる一番のメリットって文章構造だと思う。「問題提起→補足、具体例→再主張」っていう明解な流れって、もごもごダラダラ喋っちゃう日本語よりも学びやすいんじゃないかな。一文レベルでみても、「S→O→V」の日本語よりも「S→V→O」で示す英語の方がスパっと伝えたいことが伝わる感じするし。

 また脱線しました。長文を読むときって、「内容」を捉えようとする子が多いイメージがあって、どうももったいないなと思う。せっかく学んだ文法の知識が活かされてない。例えば、「不定詞には①名詞的用法②副詞的用法③形容詞的用法がある」って知っていても対話文中で"I want something to eat."なんてのが出てきても不定詞のふの字も思い出せないなんてことがある。

 あと、文法がすっぱ抜けるから、長文を読むとき単語レベルでみるようになり、誤解が生じる。センターの内容一致問題で「本文に出てきた単語が入ってる選択肢」が用意されてるのも、文脈を把握できてない子をひっかけるときためなんでしょう。

 もちろん、長文を読む面白さとしては話の内容があることなので、内容を捉えるべきなんですけど、そこが最優先になっちゃってないかなってだけなんだけどね。

 

 で、これだけゴチャゴチャ述べてきて何が言いたいのかと言うと、「文法」と「長文」は密接に関わってるっていう意識を子どもたちはもっともったほうがいいよなぁ、ってそれだけです。それだけのために文法てさぁ~とか御託並べてたの?!ウソじゃん!?

 学校の先生が長文を読むときに文法の解説をしてないとは全く思わない。むしろ学校によってはメチャクチャしてると思う。そんで結局生徒が文法にうんざりしてるまであるだろう。じゃあ子どもの責任なのかっていうとそういう話でもなくて、やっぱり教える側が伝えなきゃいけない事だろうと思う。現状のあべこべさの原因がなんなのかは門外漢の自分にはよくわからないし、現場の先生方が今まさに苦心してらっしゃる最中だろうから、口出しをしたいわけでもない。

 ただ、英語を勉強して面白さを感じていた自分としては、あんまり子どもたちに「英語嫌い!」って言ってほしくないなぁ、と思うわけです。好きなアニメのアンチを見たくないのと同じ感情。

 文法が先か、長文が先か、とがっつり分離してしまうと理解から離れていくようです。文法と長文は英語という一つの教科の中に生じているものでもあり、また二つの領域として互いに作用しあいながら深まっていくものなのだ、と自分は考えています。

 

オタク大学ロマンチスト学部

 ロマンチストだ。加えてナルシストだ。

 先日、ツイッターで「オタクは創作物の中の会話を参考にするから話し方がどうも演技くさくなる」というツイートを見かけてなるほどと思った。自分はそこで、話し方以外にもオタクにはある種の傾向が認められるのではないだろうかと思って己の「クサイところ」を振り返ってみた。すると、人情あふれるロマンチックな行動を現実においても志向するクセが認められたのだ。いやまあ、以前からうすうす感づいてはいたんだけど。

 明瞭な具体例が出てこないのだが、自分の熱意とか過去だとかに陶酔するところからその良くないクセは発生しやすい。なんというか、真剣になりやすい。で、その真剣さを外に出しやすい。日常の中でいちいち「マジ」になってしまう。で、その「自分のアツさ」に対して酔っちゃったりなどする。分析して内実を暴いて言葉にするとほんとうに恥ずかしい。さらには周りのパンピたちよりも自分がいつも真剣に物事を考えてる錯覚にさえ陥って優越感に浸ることさえあるから厄介だ。見下してる周りのパンピたちが普通にやれてることに憧れてるくせに、ロマンを発揮できる場面になると変に発熱しだすからよくない。

 オタク一般に言えるかはわからないが(なにしろオタク相手とですら人間関係を築くのが難しいからデータが少ない)生身の人間とのかかわりをもてない→創作物の世界に慣れ親しむ・そこで人間の内面にふれる→生身の人間とのかかわり方は知らないから現実で失敗する以下繰り返し、のディスコミュニケーションスパイラルになってしまう。そして、一方では「人間の内面」とか「情」に触れ続けてるから異様に繊細になっていく。こうしてコミュニケーションに難を抱えたまま無駄に傷つきやすい人間が生まれるのだと思う。少なくとも自分はそのクチだ。大体こんな悪循環を経て、普通なら限られた場でしかさらけ出さない弱みや熱意を簡単に提示したがるいわゆる「ファッションメンヘラ」と呼ばれる人種にワープ進化をした。

 話の出発点からだいぶ離れたところに来てしまったがうまくまとめるつもりで書いているわけではないので妥協。

 

 ところで、この記事にも少なからず使った、特別な意味を示すためなどに語を括る「」の用法、これもロマンチストファッションメンヘラオタクの悪い癖なのではないかと思っている。学校で書く文章とかでもよくこれやってたわ。その当時すでになんか「」の多用ってなんかアレなソレだなと思いながら使ってたなと思い出してたら今ちょっと胃液がせりあがってきたのでぐっと飲みこみました。

ひとりよがり

 「文章が独り善がりなんだよね~」と、国語の先生に言われたことがある。人生において忘れられない一言ランキング第3位である。

 そもそも、自分は独り善がりな人間なのだ。文章が、ではない。独り善がりな人間だから文章もそうなってしまう。「人にうまく伝えよう」というところに意識が向けられないのである。「自分が言いたいことを言う」レベルで停止している。sayじゃなくてtellをしないといけないのに……とか、ほらもうこうやって英語でニュアンスの違いを表現しようとするところなんか特に顕著だよね。しかもお前、英語に詳しいわけでもないじゃないか。ほんとこういう人間って害悪だわ(傷つかないための予防線byミスチル)

 こんな風に予防線を自分の中で張り張り生きていると、たまに聡明で親切な人がそれをぶった切ってくれるなどするため、貧弱独善人間は「ふええ」と言いながらからにこもるを繰り出すのだが、残念ながらぼうぎょが上がったためしもなく……。

卑屈の煮凝り

 卑屈です。あと根暗です。大人に何か言われたら大体「ヘヘッ……」と笑いをにじませつつ、自分の右下あたりを見ながら相槌を打つのが得意技。

 反省のふりをするのも得意ですね。自分のダメなところはいろいろ思いつくけれど、根本的なレベルでは言及できないしじゃあ今度からこうしようという考えもない。PDCAではなくDCの繰り返しで生きてるから無計画無反省。なぜかというとプライドが高いから。表面的に自分を貶めることは頻繁にやりますけどリストカットと同じ原理。本気で自分を改善しようとかは、エネルギーがうんといるから嫌だし、自分のダメなところの根っこに目を向けるのも嫌だし。

 そんなわけで墜落間際の低空飛行って感じの生活を送っている。主に呼吸をして過ごしています。

逆リアルフェイス的生き方

 ギリギリでいつも生きていたいから~アア~で始まるあの歌。世にごまんといるという「ギリギリ病患者」たちによく引き合いに出されているのではないだろうか。自分もその一人だった。

 いや待ってくれ。ギリギリで生きたいわけではない。常に余裕たっぷりの左うちわで生きていきたいんだよ本当は。I don't want to live girigirily.

 稲川淳二のように頑張るの嫌だな~嫌だな~無能な自分をさらけ出すのが怖いな~怖いな~と戦々恐々としながらベッドの上で布団にくるまる毎日です。今日も昼に起きました。このナミダ・ナゲキいつか未来へのステップになるんでしょうか?いや無理。だってこれまでの人生におけるナミダ・ナゲキ→絶望へのステップだったじゃん。こうやって諦めることに馴れていく。

三日坊主にすらなれない

 本を読んだときの興奮に任せてうっかり開設してしまったこのブログだが、結局は悲しいワンナイトカーニバルに終わっていた。その記事の内容も本にかこつけた究極オナニーショーでしかなくて余計に触れづらい状態である。まあ、元々そういうつもりで書いたんですけども。

 基本的に、自分は物事を継続するということに向いていない。気が向いたときだけポロポロやるとか、外からの強制力でとか、そういうのだったら多少は続く(続けざるを得ない)のだが、新しい生活習慣を作ろうとかはもうダメ。ダメ中のダメ。三日坊主とはよく言うが、これからこれをやろう!と思い立って三日続いたためしがない。最早三日坊主が憧れになる始末。この記事も急に思い立って書いてるから、次の投稿がいつになるやら。

 ところで、インターネットとは不思議なもので、画面の手前と向こうには生身の人間がいるのにどうもバーチャル体験になってしまう。世に聞くバーチャリアリティってこのことですか?(唐突な無知)他人が一生懸命言っていることとか、自分が真剣に考えていることとか、「ネット」というフィルターを通すだけで全部絵空事のような気がしてくる。現実よりもよっぽど内面を開示し合っているのに、現実よりも他人の気持ちに鈍感になってしまう。人ってたぶん、わからないもののほうが大事にできることが多いんじゃないかと思うなどした。よろしく哀愁

学校へ行けなかった私が岡田麿里著「学校へ行けなかった私が『あの花』『ここさけ』を書くまで」を読むまで

 この記事は書評でも感想文でもありません

 本を読んで自分のことを話したくなっただけです

 

 

 

 

 

「二十七歳の私は、十五歳の頃の私よりすこしも賢くない。」

 

 映画「言の葉の庭」の登場人物、雪野のセリフである。

この作品は2度ほど見ているが、毎回このシーンでぐっと目の奥が熱くなってのどが苦しくなる。そして、頭の中にいる小学生の自分を思い出す。

 私は、あの頃からすこしも変わっていない。

 

 数日前、大学にある本屋で見覚えのあるキャラクターが視界に入った。地底人、と書かれた赤いTシャツ。目が隠れるほどボサボサに伸びた黒髪。テレビアニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」の宿海仁太、“じんたん”である。

 それから目に飛び込んできた本の題名と、桜色の帯に書かれたキャッチコピーに釘づけになった。値段すら確認しないままその本をレジへ持っていった。

 この本は絶対に読まなければならない、そう運命的な確信が表紙を見てからの数秒で生まれていた。

 

 

 

  本を読んで泣いたことは何度かある。だが、それはページを何十枚かめくったのちの話だ。

 生まれて初めて、本の目次を読んで涙がこぼれた。

 各章から印象的な部分を3行ほど抜き出して並べ、それぞれの章にタイトルがつけられたシンプルな目次。初めて見るはずのその言葉たちを、私は知っていた。

 

「誰に挨拶したらいいかわからない」

「一日、一日が消えていく」

 

  編まれた文には確かに初めて触れるはずなのに、それを生み出す語彙に、単語のもつ温度に、ひどく覚えがあった。学校へ通うようになってから忘れていた感覚。夕暮れに沈む部屋の暗さ、ていねいに手入れされた布団の匂い。毎日脳内を占領していた「罪悪感」というワード。

 プロローグに記された「あの頃と何も変わっていない自分」というフレーズに視線を奪われながら、私は何も知らないはずの岡田麿里という人をすでに同族だと認識し始めていた。

 

 

 

第一章「学校の中の居場所」

「私には、登校拒否児に必須の要素が足りなかったのだ」

「未来の屈辱に動けずにいた」

「辛い未来を先回りして想像し、勝手に恐怖をつのらせてしまう」

 

 自分はわがままな性格だ。やりたいことはやれなくちゃイヤ。やりたくないことはやりたくない。“それってなんかダサくない?”と最近聞いた楽曲の歌詞がグサリと胸を刺してくる。

 何がきっかけだったかも覚えてない。覚えてないくらい些細なことから、私は幼稚園に行かなくなっていた。だってなんか行きたくないんだもん、くらいの気持ち。「社会不適合者」という単語を知るよりずっと以前に、私は自分が社会不適合者であることに気づいていたのだと思う。昼間の園内でみんなと遊んだ思い出はほぼない。未だになぜか覚えている「昼間の教室」の記憶は、給食のときに「今日うちと遊ぶ人ー!」と幼児特有の唐突な募集をかけていた女子に対して、ごはんで口をいっぱいにしながら必死で挙手で訴えたという謎のもの。結局、その日その子と遊ばなかったと思う。

 記憶の中の幼稚園には、子どもがいない。たまに、大人が数人。子どもたちが大勢走り回れそうな広い運動場も、夕暮れになってしまえばがらんどうだった。1か月分の日数も通った覚えのないその場所に、愛着がないわけではなかった。「私の卒園式」は、卒園式が終わったあとの寒々とした講堂で行われた。幼いながらに、どうして卒園させてもらえるんだろう、と不思議に感じた。

 

 小学校に上がったら普通になる、なんてことはなく、バッチリ小学一年生から不登校児デビューを決めていた。「幼稚園なんて遊んでるだけでいいじゃん」「小学校低学年なんて人間関係の難しさないでしょ」なんて台詞も今なら吐き捨ててやりたいものだが、そうもいかない。

 漠然とすべてが嫌だったのだ。

 狭い田舎。閉塞的な教室とクラスメイト。私は周りからどう見られているのか。「変な子」が叩かれる恐ろしい空間で自分がいつその対象として見出されてしまうのか。いじめられて学校に行けなくなる「対処としての不登校」ではなく、いじめられる前に学校に行かなくなる、「予防としての不登校」。年齢が2桁にもならなかったあの頃、私はいじめられないために学校へ行くのをやめたのだ。

 

 ここまで自分語り乙としか言いようのない文章を並べ立ててきたが、ここでようやく本の内容に触れる。

 項の冒頭に引用した3つのフレーズ。私はこの言葉たちに出会うのを待っていたのである。教室へ通っていなかったおよそ8年ほど、私はずっと自分を呪っていた。

 

「いじめられたわけでもないのに不登校を続けているなど、お前はなんてずるいやつなんだ」

「いじめられたくないがためだけに、いろんな大人に迷惑をかけて家でのうのうと現実逃避しているなんて、最低だ」

 

 学校に行っていなかった頃のことを思い出そうとすると、晴れていたはずの日ですら曇り空でしか蘇らない。春も夏もあったはずなのに、自分は秋と冬ばかりを巡っていたような錯覚に囚われる。同級生とうまくやれない未来しか見えなくて、己がかわいさゆえに学校を休み続けた。私より苦しい学校生活を送っている児童は日本全国にきっとたくさんいるはず、そのこともチクチクと苛んできた。

 私がいつ学校へ戻っても大丈夫なように給食費を払い続けていたであろう親。我が家の恵まれた経済状況とどこかにあるはずの貧しい家庭、いつも1食分あまる給食とそれを食べる顔もわからないクラスメイト……脳内をめぐる様々なイメージと、わかっていながら学校へ行かない自分。

 

「投げかけられるであろう言葉を想定して怯えていた」

 

 自らの臆病さと利己主義を呪っていた頃、そんなことを人には言えなかった。今だって、隠していたい気持ち。

 この本を通して岡田は、自分のずるさ弱さを取り繕わず、羞恥で身体が熱くなるような葛藤を、そのまま言語で捕捉して、文章に表していた。学校へ通うようになってから数年が経って、ようやくあのころ探し続けていた光明が胸の内に射した。私がずっと読みたかったこの本は、一体いつ出版されたのか。奥付を見る。

 

 二〇一七年四月十五日第一刷発行

 

  たった1週間ほど前の日付が記されている。

 本屋に行くまで存在も知らなかった本に対して、「やっと出たのか」と肩を落とした。

 

 

 

 

 

 

 第二章以降については、気が向いたら