土葬

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「つながらない」連帯のかたち―ドラマ「アンナチュラル」考

※ネタバレ含む。未見の方の閲覧は自己の判断に基づいてお願いします。

 

 

 

 

1.序

 本稿は、TBS系ドラマ「アンナチュラル」で描かれている人々の連帯のかたちを分析することを目的としている。法医学者たちが不自然死の究明を行う「UDIラボ(Unnatural Death Investigation Laboratory)」を舞台とするこのドラマは、8年前のある事件の真相にせまっていくことを中心のストーリーに据えつつも、第1話から第8話までは基本的に各話完結で進行する。

 各話完結部分の最終回ともいえ、中心事件の序章ともなっている第8話「遥かなる我が家」では、三澄ミコトと養母・義弟、勘当されたまま焼死した息子と両親、遺骨の受け取りを拒む老人、医者一族の落ちこぼれ・久部六郎と厳格な父の物語が同時に進行しており、家族との間にあるわだかまりと「帰る場所」を主題としていることが読み取れる。第8話の最終シーンでは、父親にUDIで働き続けたいと自分の意思を伝えた久部が、ラボの面々に「おかえり」と迎えられ、笑いながら涙を流す。週刊誌の編集部でも辞意を伝える久部は、父や上司に示された道ではなく、自らUDIに居続けることを選んだ。

 久部のエピソードからは、UDIラボは単なる職場というだけではなく、一種の共同体として機能していると考えられる。一見するときわめてビジネスライクでドライに見えるUDIラボにおける人間関係を分析することで、人々の連帯のかたちの可能性を探りたい。

 

2.人物

 三澄ミコト(演:石原さとみ)は、物語の序盤で、一家心中から生き残った過去を背負っていることが明らかにされる。母親に心中の準備をさせられた幼少時の経験から、不条理なできごとに対する憤りを原動力とし、解剖に臨んでいる法医解剖医である。事実に反することは、どれほど追い詰められていても認められないなど、強い信条をもっている。

 中堂系(演:井浦新)は同じく法医解剖医で、口を開けば「クソが」と暴言を吐いているのが特徴である。8年前に恋人を殺され、彼女の解剖を担当したことで殺人の容疑をかけられている。恋人の死の真相をつきとめるべく、口内に「赤い金魚」の跡がある遺体を探し続けている。

 久部六郎(演:窪田正孝)は、写真撮影など、解剖の記録を補助するアルバイトの学生である。法医学の専門家であるUDIラボの面々との対比において一般人的な立場を与えられており(医学部生ではあるものの)、視聴者の感覚を担う役割ともいえる。本作は父に与えられた医学の道を、三澄をはじめとするUDIの考え方に影響を受けるなかで自ら選びなおす、彼の成長物語としても読むことができる。週刊誌のスパイとしてアルバイトに入ったことを隠している。

 東海林夕子(演:市川実日子)は三澄班の臨床検査技師であり、「異性間交流会」(=合コン)への参加に燃えている。三澄、中堂、久部の3人と比較すると「過去」や「秘密」の設定付けはないものの、三澄と並んで描かれる女性の同僚として、その重要性は見逃せない。

 以上の4人がUDIラボの中心人物であり、本稿において連帯の分析項でもある。ラボの職員としては、所長の神倉、中堂班の臨床検査技師・坂本も登場するが、今回は三澄と他の3人の関わりを考えるため、分析の対象としない。

 

3.共闘する人々

 では、彼らがはたしていかなる関係を築いているのか。ここでは主人公の三澄と中堂・久部・東海林のそれぞれの二者関係に注目して論じていく。というのも、以下に述べていくように、UDIラボにおける連帯の意義を論じるにあたっては、不条理に対する三澄の強い信念が手掛かりとなっているからである。

 

(1)三澄と中堂-不条理な世界への抵抗

 傍若無人な中堂は、助手の坂本をはじめ他人を遠ざける存在であった。三澄はそのような中堂に臆すことなく、暴言をいなし、協力をもちかける。一匹狼的で馴れ合いが不得手な中堂も、毅然としてふるまう三澄を認め、互いに互いが追究する事件に手を貸すようになっていく。

 象徴的なのは第3話の証人喚問である。「若い女性」という属性を「感情的」「学術的権威がない」などという論旨で激しく攻撃される三澄。自分では変えようもない性質をラベリングされ憤る三澄だが、どう立ち回っても都合よくあげつらわれ、追い込まれてしまう。現実に生きる我々にとって、ここでの理想は三澄の言葉が「偏見なく」受け取られることで裁判に勝利することであろう。だが、ドラマ「アンナチュラル」はやや苦みの残る解決策を提示する。三澄は「男性」の中堂に代わりに証人として法廷に立つことを要求する。そして事件は、はじめに三澄が指摘した証拠をもとに、真相にたどり着くことになる。また、このときの交換条件として、威圧的な中堂に代わって物腰の穏やかな三澄がパワハラ問題でもめている技師の坂本と話をしにいっている。ここでは、ジェンダーに割り当てられた「強さ」「優しさ」のイメージを前提のものとしている点には注意が必要ではあるものの、それらが等価のもの、すなわち優劣によって序列づけられたものではない点に注目すべきである。こうした一連のギブアンドテイクからは、ふたりが対等に渡り合う共闘関係にあることが示されているのだ。

 金魚事件を追うなかで起きる中堂と三澄の接近について、東海林と久部によっては恋愛のコードにおいて理解される。しかし、それは視聴者に見えている世界にとっては陳腐な誤解であることが明白である。なぜなら、ふたりの与り知らぬところで、中堂と三澄は事件を追っているのだから。知りうる情報の違いにより生じたこの理解の差は、男女の関係を恋愛として見ることを安易な思考として定義させる。ジェンダーの差異を相互に利用しつつ、しかし互いを「男女」としては見ていない三澄と中堂。ふたりの関係は、ジェンダーアイデンティティの闘争が繰り広げられる現代にとってのひとつのユートピアといえよう。

 

(2)三澄と久部-法医学の誇りにかけて

 久部は父に強いられるままに医学部に進学し、医学の道に進む意味を見出せないでいる学生だ。UDIラボにも、当初は週刊誌編集のスパイとして潜入している。そんな久部がしだいに法医学を志すようになっていく物語がドラマのひとつの魅力でもあるのだが、彼が法医学の道を目指すきっかけともいえるのが三澄である。

 三澄の「法医学は未来を守るための仕事」という信念に触れたことで、久部の考えは変容し始める。亡くなった人の体を解剖して死因を探る、というただそれだけではなく、不自然な死を遂げた人の思いを掬い上げることで、過去を癒し、現在をまなざし、未来を拓いていく。法医学には、不条理な死から選ぶべき生のあり方を編み上げる意義がある。「アンナチュラル」と闘う三澄の姿に、久部も自らの進む道について考えをめぐらせるようになる。

 法医学の価値を理解するにつれて、中堂と同様に久部も三澄に接近をしていくことが示されるが、ふたりの間にもやはり恋愛は発生しない。久部が三澄を気にかけるシーンはたびたび出てくるものの、三澄は久部をまったく恋愛対象として見ていない様子がコミカルに描かれる。久部と三澄の関係の中心にあるのは、「法医学は未来のための仕事」という信念の継承であり、一種の師弟関係なのである。

 

(3)三澄と東海林-プロフェッショナルとして

 東海林夕子は、今回分析の対象とする二者関係の中で、唯一三澄と同性同士である。一般にドラマやアニメなどでは主人公と同陣営でライバルとしても描かれていない同性とは、友情やそれに近しい連帯感で結ばれる傾向にあるように思うが、東海林はそうではない。彼女に初めてスポットが当てられる第6話のタイトルは「友達じゃない」だ。この回で東海林ははっきりと言い切っているのだ。「あたしたち友達じゃないじゃん」と。では、三澄と東海林はどのような関係を結んでいるのだろうか。

 彼女たちの第一の共通点としてあげられるのは、研究者・技師としての優秀さであろう。あくまで「シゴト」としてUDIラボに勤めており、「異性間交流会」にも熱心に通う東海林には、三澄のような法医学への信念といったものが描かれているとはいいがたい。しかしながら、東海林がその技量において三澄に劣っているなどということは一切ない。三澄が追究している事件のために様々な実験を試みる時、東海林は専門的な知識・操作を駆使してそれを後押ししている。東海林は三澄のように大きな枠組みにおいてその仕事の意義を語ることはしないが、彼女は自らが専門とする知を信頼し、それに基づいて確かに職人芸をこなしているといえるのだ。三澄と東海林の関係性を一言で表すならば「友達」ではなく「同僚」となるであろうが、それは単なる職場を同じくする者ではなく、ともに仕事を成立させる学問に敬意を払い、目の前の課題を解決していく際の武器として使いこなす戦友の意味も持ち合わせているのではないだろうか。

 

4.UDIラボにおける連帯のかたち

 ここまで、三澄と他の主要人物たちの関係を見てきた。それらはいずれも、恋愛や友情という温かいイメージをもち時に駆け引きをともなう人間関係ではない。淡々としていて、静かで、互いの内部に踏み込むほどの距離をもたない、一見するときわめてドライなそれである。しかし、だからこそ彼らは医学を信じ、不条理に立ち向かう共闘者たりえている。闘う者にとって、闘う者同士の馴れ合いは重要ではないのだから。

 接近するということは、ともすれば相手と自分の内面を見つめ、しだいに二人を分かつ境界があいまいになり、不満や疑念、葛藤が生じてくるものでもある。SNSの普及により、人々の思考は生々しく、むき出しのものとなり垂れ流されるようになった。肉体をもつ人間同士が対面するのとは異なり、思考と思考が一触即発の状況におさめられている。SNSはだれかと「つながる」ためのものだが、そこで生まれる「つながり」を維持するためには気を遣い、言葉を選ぶことが求められる。小さな世界の中でお互いを見つめあい、非常に繊細な優しさでつなぎとめられるものである。

 対して、UDIラボの人々は不条理な出来事に立ち向かうという途方もなく巨大な絶望の前でただ自分の仕事をしている者たちの集まりだ。彼らは「つながる」ためにそこにいるわけではなく、それぞれ異なる目的をもってそこで働いている。三澄は不条理と闘うために、中堂は恋人の事件を究明するために、久部は自らの進むべき道を探るために、東海林は医学を生業とするために。それゆえ、彼らの間には距離がある。だが、そこにある距離は、愛着の否定を意味しない。それは孤独の肯定であり、敬意である。相手に過度に接近することで自他の境界をあいまいにするのではなく、互いに個としてあることで、ともに闘う存在でいることができる。その意味で、アンナチュラルは、「他者」が他者であるままに共生する世界を実験した作品である。分析的視点からは外れた一文となるが、この虚構の実践を受けて、現実の我々も不条理と闘うべく他者と手を携えられるようになっていくことを願うばかりであるということを添えて、筆をおくこととする。