土葬

インターネットの片隅で、壁に向かってシャドーボクシングをしています。

とまどい

 いつからかはわからないが、ずっとずっと困惑している。

 武田砂鉄『わかりやすさの罪』(朝日新聞出版、2020年)を読んでいる。タイトルや帯文に興味をひかれ、以前から読みたいと思っていた本だ。

 最近のインターネットはどうも息苦しい。現実からの逃げ場だと考えていたのに、いつしかこの空間も闘争の場と化していた。正しさを競って殴り合ったり、被害者と加害者という関係性が生じていたり、現実の閉塞感を有象無象の言葉によって立ち上げられている。図式化したくない。二項対立で見たくない。暴力的で単一的な解釈をしたくない。「わかりやすさ」を享受したくない。『わかりやすさの罪』を読んだら、自分の感じている閉塞感に対するなんらかの見解があるかもしれない、いや、もっと赤裸々にいうならば「自分の閉塞感がまっとうな感覚である」と、確かめられるかもしれない、と思った。

 期待は、半分当たって半分外れた。「わかりやすさ=善」とする社会的規範に疑義を投じているところはうんうんと読んだ。ただ、一方でそれ以上に、わからない。自分が文章を熟読できていないからというのもあるが、武田の書くところの「見切り発車」性がそこかしこに散らばっているからだ。書いている本人が自問自答しながらさまよい歩いているのを、見ているしかない感覚。予想を上回ってきたのは、この徘徊にも似た思考のわからなさだ。自分は結局のところ「わかりやすさ」のもつ危うさを「わかりやすく」「明快に」斬ることを期待していた。それは結局、わかりやすいものに甘んじて飛びつきたくないというひとつの「わかりやすい」主義でしかなかった。武田の「見切り発車」は、自分のそんな甘い期待に背を向け、ただ車輪が回るままに思考を運動している。

 

 ところで、この本を読み始めてからよりいっそう、わかりやすさ、王道、常識、といったものへの抵抗感が増してきた。顕著なのはアルバイトの最中で、これが本当に困る。

 大学に出すための志望理由書を書いている生徒がいる。将来の目標の職業がある。こんなことをきっかけに〇〇になりたいと思った。こんなことがあったのでよりいっそう〇〇になりたい気持ちが強まっていった。そのために貴学で△△な学びをしたいと考えている。みたいな流れで書こう、と自分は言う。言いながら、困惑している。

 どうして、この子に自分の経験をそれらしく書かせる必要があるのだろう。大学に媚を売るために、なぜこの子は自分の経験を物語にさせられなければならないのだろう。なりたい職業があって、そのために努力しようとしているのに、どうしてそんなに動機を問われるのだろう。もうわけがわからなくなってくる。もちろん、大学側から考えれば、やる気があって意味の伝わる文章を書けて、社会の常識を守ることのできる人間を欲しているのだから、どうしてこの大学に入りたいのかを聞くのは当然のように思える。その高校から合格した過去の生徒による志望理由書も見たが、どれも判を押したように美しいものばかりで、げんなりした。しかし、これらと同じように書けばいいよ、としか言えなかった。自分の納得いかなさなんかより、お利口にテンプレに沿って書くことで合格することのほうがよっぽど意味のあることだと思う。

 就職活動での自己PRについて、『わかりやすさの罪』で言及されていた。大学入試とシチュエーションの違いはあれど、根本的な問題意識は通底している。

 

あなたという人間を規定しなさい、コンパクトにまとめた「コード」をこっちに寄越しなさい、と要請され続ける中で、プレゼン用の自分を作り出してしまう。そこに「私」なんてものが濃厚に存在するはずもなく、私が考える私っぽい感じを提出し、これがコイツっぽい感じなんだろうなと、アイツが判別するだけである。なんと無駄なのだろう。人間を規定する行為なんてものは、このようにして、不可能なものを可能っぽく見せているだけなのではないか。

 就職活動で行われるこの手の行為に無理があることくらい多くの人が知っているし、わざわざ分析するまでもない。だが、今この時代は、自己のPRによって自分の枠組みを規定させられる場面が、あらゆる段階でやってくる。その時、思春期の学生のように「ところで自分ってなんだろう?」などと悩んでいると、たちまちコミュニケーション能力が低い人物と規定されてしまう。だが、自分なんてものは、別に規定しなくてもいいはず、と繰り返したい。(武田、前掲書、156頁)

 

 他人のために自分を再構成する行為の嘘くささに困惑しながら、しかし一方では、社会で人と関わって生きていくということには相手に合わせることも必要だと納得しながら、他人の志望理由書に付き合っている。

 

 志望理由書だけでなく小論文でも似たようなことがある。高校生が書こうが小がついていようが論文は論文なので、大前提としてそこには根拠を示しながら前進していく論理が存在しなければならない。拝啓で始めたら敬具で終わるのがマナーであるように、論文には論理が存在しなければならない。だから、生徒には話の筋道が通るような順番を提案する。

 しかし、やはり、困惑している。なぜ小論文なんだ。論理的であることは大事なのか。『わかりやすさの罪』でも、論理的と非論理的を比べ、前者に価値を認める考えへの疑問が示されている。確かに大学での学び、とりわけ研究とはとにかく「書く」ことである。論理的な文章を書くことは重要なスキルだ。だが、常に論理的であればよいわけではない。とりわけ、人間や社会といったものを相手どって学ぼうという者は、論理や二項対立のような整理された概念からいくらでもこぼれ落ちる何かに出会わざるをえない。もちろん、そういうわけのわからない何かと対峙するのは、大学に入ってからいくらでもできることかもしれないが、それでも戸惑ってしまう。いつか受けた研修で、「得点を上げてあげられるのが良い講師」と聞いた。そりゃそうだ。成績がいつまでたっても上がらないなら、親は子を塾に通わせている意味がない。でも、そんなことないやい、とも言いたい。

 いま人々の間で取り決められている制度への異議と、しかしその枠組みの中で努力してみせることしかできないという無力感とのあいだで、常に困っている。

 

 とにかくこの困惑を書きたいと思った。誰かに聞いてもらいたくはなかった。共感もいらない。反論もいらない。相づちすら聞きたくもない。ただ叫びたかった。書きたくてたまらなかったが、頭の中で渦巻き代わる代わる響いていた言葉が、線状になるか心配ではあったが。

 まとまりも落ちもつけないが、ひととおり叫び終えて少し気分が落ち着いたので、これで終わる。きっと、明日も来週も来月も戸惑っていると思う。