土葬

インターネットの片隅で、壁に向かってシャドーボクシングをしています。

セールストークと人情

 将来AIに人間の仕事がとって代わられる、と昨今しきりに叫ばれている。それに付随して、「とって代わられない部分」も話題に上がっているように感じる。

 「意味」を理解すること。そして「情」を理解すること。その最たるものが第三次産業、サービス業であろう。

 

 さて、大それた前置きはさておき、今日、新しい靴を買った。この靴は、昨日靴屋の店員に薦められて購入を決めた。

 新しい靴を買いたいな、とは思っていた。けど、別に今すぐじゃなくていいし3000円くらいで安売りされているもので構わないつもりだった。「こんな上等なやつは自分では手が出ないな~」と思いながら参考のために物色していると、店員に声をかけられた。

 自分は店員に声をかけられることに「ウッ」となるタイプだ。だって、買わないかもしれない商品を見ているときにその売り手たる存在に捕捉されるのって恐ろしくないすか??服屋さんでは特に、買わねーのにそのダッサい格好でチラチラ見てんじゃねーよと思われている気がしてならない(ここ自意識過剰)。

 だから、店員が声をかけてきそうな気配を察知すると、それとなく脱出するなどしていた。しかし、先日から自分はつとめてナチュラルに生きると決めたため、店員の声かけを甘んじて受け入れた。

 親切なおにいさんが、自分が興味を示していた靴を指して、これ昨日入ったばっかりなんですよ~と球を放ってきた。へー、棒読みで打ち返す。新作。型落ちによる値下げ品ばかり狙ってきた自分には高嶺の花だ。最近、機種変したスマホも2017年夏モデルです。

 靴自体は欲しいと思っていたのだが、あいにく持ち合わせの金もなかったため「今日は買うつもりないんですけど……」と卑屈な愛想笑いをキメた。しかし、おにいさんは「全然大丈夫ですよ~!試しに履いてみるだけでもどうですか?」となんのその。なんだこの人、太陽か??こちらが雲を呼びよせてもなお光り輝くぞ。

 ちなみにそのとき、元々この日のお目当てだった靴の中敷きを持っていたのだが、それも「お預かりしますよ!」と受け取ってくれた。細やかである。

 今日は買わないと断言したにもかかわらず、極めて明るく親切に提案してくれたおにいさんに素っ気ない態度をとる気も生まれず、なし崩し的に試着する流れに。まぁ、こういう良い靴を履く機会もめったにないのだし体験くらいいいかという気になってくる。この時点でおにいさんの「技」は決まっている。

 見本のサイズを履いたところ、自分には若干小さめであった。「あっちょっと小さいですね……」と半笑いで言うと、おにいさんは「いつもはどれくらいのサイズなんですか?」とすかさず聞いてくる。その質問に答えると、おにいさんは「わかりました!出してきますね!」と爽やかにバックヤードへ駆けて行った。戦慄した。今日は買わないって言ってる客のために……靴をわざわざ倉庫から持ってきてくれる……。その精神はどこからくるの?(赤ちゃんはどこからくるの?

 なんと、おにいさんは靴紐まで結んでくれた。いままで生きてきてこんな姫プレイ受けたことないんですけど……。童貞的動揺を押し隠しながら紐が結ばれるのを待った。

 おにいさんが出してきてくれたサイズは、しっくり馴染んだ。つま先のところがやや余り気味に思えたが、それについて尋ねてみると、その程度でちょうどいいらしい。おにいさん曰く「自分はいつもこのくらいで履いてますね!」。

 いや、実際履いてみるとやっぱり良い靴は「良い」のだとわかる。中敷きのクッション性も高く疲れにくそうだし、靴底もしっかりと硬くちょっとやそっとでは壊れそうにない。いつもケチって買っていた安価なスニーカーとは足の裏に伝わる安心感が違った。安かろう悪かろう、とはこのことか。

 おにいさんの接客と靴の性能に、自分はいつの間にか真剣にこの靴を買う気になっていた。しかし、実際問題この靴を買うだけの現金は所持していない。おにいさんに今度来たときに買いますと告げて、その日は結局インソールだけ買って帰った。

 

 帰り道、接客業ってスゴイと思った。買うつもりのなかったものが急激に魅力的に見えてくるのだ。

 きっと、あの靴屋の店員たちは買う客にも買わない客にも平等にあのような親切丁寧な接客をしているのだ、と思うと泣けてくるのだ。靴は、庶民にとっては決して安い買い物ではないだろうから、きっと買わない客のほうが多いだろう。それでも、彼らは店を訪れた人間が商品を眺めていれば声をかける。彼らにとってはそれが仕事だし、あるいはそこまで声をかけるということが苦でないからかもしれないが、やっぱり買うか買わないかわからない人間に明るく親切に接しつづけるというのは胆力が要るだろう。自分がそういった、積極的・自発的な声かけを苦手とするせいで余計にそう感じた。

 これだけ店員に感情移入してしまうと、「お前怪しいツボとか買わされちゃうぞ」と思われるかもしれないが、ツボと靴では話が違う。怪しいツボを売りつける人間は健康ではない。あくまで、親切で健康な人間におすすめしてもらうのがいいのである。あと、単純にそもそも自分で必要だと思っていないものはさすがに買わない。

 そして、今日その靴を買ってきた。買うと決まったものをそのままにしておくと、いつまでも頭の片隅に「買わなきゃ」というモヤモヤが居座るため、行動に移した。残念ながら、例のおにいさんはいなかったのだが、可愛いおねえさんが対応してくれた。おにいさんの接客に感謝していることを伝えたかったが、変な人にはなりたくなかったのでぐっと我慢した。客側の感謝って、お店に伝わるよりもずっとたくさん存在していると思った。

 

 近所のスーパーのレジは、店員が商品をスキャンするが、精算部分だけは機械で済ませられるように変わった。人間がお金を取り扱うよりはずっと間違いはないと思う。計算ミスがなくなれば店員もお客さんも困ることは減るし、慣れない完全セルフレジよりもレジの回転率は良いだろう。

 機械で出来ることが増えた分、人間の長所とは何か問われている気がする。そして、ものすごくありふれた考えに行きついてしまうのだが、人間がもつ一番の武器は「感情」なのだと思う。だから、PONANZAがどれだけ強くなっても羽生さんや藤井五段に熱狂するし、スーパーコンピュータの計算速度が上がってもその開発チームにスポットを当ててしまう。理屈をわきまえていることはもちろん大事だけれど、情熱をもって物事を受け止めることができれば、日常が華やいでくるような気がする。

 

 以上、「靴を通して人生の機微に触れた話」にみせかけて、「親切なおにいさんに接客されてるうちにいい気になってちょっと良い靴を買ったちょろい人間の話」でした。

切れ端

 自然に言葉を覚える段階を過ぎたら、「こんなことを表現したい」と思って新たに探さないと語彙って豊かになっていかない気がする。使いたいと思って得た言葉って大切だな。これまでにまあまあそこそこの情報を得てきているから、ありあわせのもので何とかしようと思えばそれで何とかなっちゃうところもあるけれど、時にはわざわざ外から仕入れるのも大事だ。いつもそれだとそれはそれで大変だけど、ここぞという正念場にはちゃんと臨みたい。

 わからないことがあるのに自分の力だけで適当に処理しようとしてしまうのって、臨もうとしている物事に対してどうも礼を欠いていることのように思う。礼なんて今はどうでもええわい、とか、今の自分のキャパ的にきちんとやるのがしんどいんじゃい、とか、そういうケースもあるはあるのだが。まあそれは別件バウアーで。

 誤解のないように言いたい書きたいと思うとまわりくどくわかりづらい論理展開になってしまうとはわかっているものの、譲歩のくだりを飛ばせない自分がいるなぁ。

 

逆行による変革

 先日、アイマス脱却おじさんのブログを読んだ。「こんなに入れ込んでいたものでも、違和感に従って周到に用意をすればやめることができるんだ」と思った。

 自分にとってはツイッターがそれで、4年ほど前に始めてから受験期であろうとインターネットができる環境にいる限りはページを開いてきた(でも、見られなかった分も後々遡って見ていた)。

 ツイッターをやめたい。完全に断ち切るとはいかなくても、生活の中で当たり前に触れるものではなくしたい。ネットの流行に敏感でありたいとは思う一方で、数多の人々の思念うずまくあのタイムラインに日常的に脳内を浸潤させていることがおそろしくなってきてしまったのだ。

 変革とは、新しい世界へ踏み出すことだと長らく考えていた。けれど、「新しく前の状態に戻る」ことも大事なのではないかと気づいた。進化ではなく、回復へ向けての前進。

 騒がしいSNSから逃れて、静かな場所で自分とふたりきりになってみたい。さながら、合コンから二次会へ移るその間に、ひっそりと二人で抜け出すカップルのように。いや、合コン行ったことないけど。オタクだからそういうシチュエーションには馴染みがある。自分という存在にきっちり向き合って、彼女が後回しにしてきた読書や勉強や観劇などなどをさせてあげたい。せわしさにかまけてネットでとっていた仮眠を捨てて、灯りの消えた部屋でそこそこの時間ほんとうの睡眠をとらせてあげたい。

 自分が忘れていた自分の行動可能性を戻すために、「良かった昔」に戻っていこうと思う。たとえば、このブログもその一つ。「インターネットが“特別に”楽しかったころ」を味わいたいのである。インターネットが好きな自分は変えるつもりはない。いわゆる健全な人間に自分を矯正したいわけではないのだ。自分が欲する不健全さはこれからも大事にしていきたいと思っている。

 近年の自分はどうも、不健全の閾値を超えてしまい、健康を損ねてしまったようだから。健康な心身とほどよく不健全な自分をうまく両立させて過ごせるようになりたいと思う。余裕をもって、ゆる~く、でもキッチリと、元気に。

B&S

 自分の中の何かを殺さないと変わることなんてできないと思った。今の状態にプラスでいい方向にプラスアルファをくっつけようとするんじゃなくて、今あるものを壊して、そこに新しいものを建て直さないと。足し算だけでは上手くいかない。前向きな引き算を出来るようになろう。もしかしたら、自分は「何もかも足りない」わけじゃなくて「どこかしらが多すぎる」のかもしれないから。

 吸収することは大事だけど、吸収したものをうまく消化できなくて、それでパンクしてしまっている気がする。胃もたれが起きたら胃薬を飲むような暮らしをしてきたけれど、食べるものやその量を見直してみよう。「そもそも」の部分を、少しだけでいいから考え直してみよう。対症療法だけでなくて、たまには予防をしてみよう。今までとにかく成り行き任せの頑張りばかりだったから、起こっていることへの対処法を知りたいと思っていたけれど、根元のところをどうにかできる力が欲しい。枝葉末節を剪定するくらいならまだ、と思っていたけれど、結局それってなんだかずっと変わらないままのような気がしていてシンドイ。

 自分の中の当たり前をちょこちょことでもいいからいっぱいひっくり返してみたい。「自分」を転覆させてみたい。あるいはそれは、とても危険な企てかもしれないけど。安定は崩さないままで、変えたくない自分は残したままで、今まで「いいや」にしてきたことを、全部、どうにかしてやりたい。今から思えばブログをできるだけ「続けて」みようと決めたのもそのひとつだったのだ。文章を長く書くのが苦手な自分が、物事を継続することが出来ないはずの自分が、狭い世界に閉じこもって広い外界に発信できずにいる自分がなんだか急に悔しくなったのだ。

 みんな、普通にやってることが急に、羨ましくなった。年明けに、ソシャゲを新しく二つも始めた。今まで「俗っぽい」「普通の人がやること」「自分には続かない」などと敬遠していたことでも、とにかく輪に入ってみたかった。そのコミュニティに、自分も「属している」と思いたかった。世間の仲間に入りたかった。

 自分だって人と関わりたい、人に好かれたい、人に認められたい。みんなと「同じ」に、「自然な人」になりたい。どれだけ子どもっぽくて、浅はかで、薄っぺらい感情だとしても、この二十余年、ずっと腹の底で煮込んできた思いの悪臭に、自分はもう知らん顔で蓋をしておくことができなくなった。今まで、内心で適当な理屈をつけてこき下ろすことで我慢していた世界に入っていきたくなってしまった。自分の声を誰かに聞いてほしい。もう、ひとりで自分と話すのは嫌だ。

 今年に入ってから薄ぼんやりと頭にあったそんな思いが、町田康先生の『生の肯定』を、頭から28ページくらいまで読んだことで爆発してしまった。あ、なーんだ。別に、いいんじゃん。今からだって自然に生きようとしたって、いいんじゃん。求めていた言葉が、求めていた人柄によってもたらされた気がした。町田先生、すみません。残りもちゃんと読みますから。

 

…(前略)…恥ずかしくない生き方ができるだろうか。

 余はできないと思う。なぜなら人間という生き物の根底にそうした恥ずかしいものが間違いなくあるからで、それがなくならない限り、必ず恥ずかしい言動に及んでしまう。

 (中略)

 つまり生の方向へ向かう、ということは、この恥ずかしさを丸ごと認めること、つまり欲望の肯定なのだ。

 

 生きることにはどうしたって恥が伴う。その恥を避けようとすることはつまり、生を避けることにもなる。しかも、避けようとしても恥を避けることはできない。むしろ、避けようとするほど恥の方から自分を追いかけて来るきらいすらある。生から逃げ出したゆえに、生に追いかけられている。それならば、いっそ開き直って生きようとすればいい。追いかけられるのではなく、自ら向かってゆけばいい。

 自分はこれまで、恥をかくことをおそれ続けていた。思い返せば、幼稚園に行きたくなかったときにも、小学校から遠ざかったときにも、中学校から逃げ出したときも、その心はずっと自分を呪縛していた。いつも、漠然と、早く死にたかった。自分も人間になりたかった。こんな刺すか刺されるかの世界から解放されたかった。そんな気持ちから、むやみに厭世的に振る舞おうとしていた。何にも心を乱されたくない、動じたくないと、漱石が晩年掲げたという「則天去私」に理想を見出そうとすらした。

 泰然自若と生きられる器ならば、あるいはそれを目標としていたってよかったのかもしれない。でも、自分はどうしようもなくちっぽけで本当にどうしようもない人間だ。俗に染まることへの憧れと絶望を天秤にかけて恥から逃げられる「カッコイイ」生き方を求めていたけれど、知らん顔をするのはもうやめた。健全にいこう。のたうち回ってやろう。バカみたいに楽しんで、ゴミみたいに苦しんで生きてやる。

 それこそ、「普通の人」のようにはいかないかもしれないけれど。最終的にたどり着いたところが「笑って泣いて全力で生きよう」なんて陳腐な、今までの自分が蛇蝎のごとく嫌っていた人生論だなんて、悔しいけれど。根本的な自分の性質まで変えようと思っているわけではないから、まあいいか。

 エニエスロビーで、囚われの身のロビンがルフィに向かって「生きたい」と叫んだように。自分もいまようやくと産声を上げたところなのだと思う。

 

 いつもなら、こういうことをつらつら書いたあとだとうわ~~こんなん後で見たら恥ずかしすぎるヤバイなどと思うのだけど、今は未来の自分にこの記事を「黒歴史」だなんて笑ってほしくないと思う。

息詰まり行き詰まり

なんでこんなに寒いんですかこの世は。

あんまり寒いので早く過ごしやすい季節になってほしい、と思ったけど、過ごしやすい季節ってないな。

春は生活形態が新しくなってめんどくさいし、これからの1年を考えると嫌になる。そして、季節の変わり目って軽いUTSU状態に陥るので勘弁してほしい。

夏は春から継続してきたことが進化を遂げて異様に忙しくなる。あと暑いので生きていることが嫌になる。

秋は温暖だった気温も少しずつ冷え込んでいき、なんだかノスタルジーな気持ちなどになる。あと、冬に向かっていくことを予期すると1年の短さを噛み締めたりなどし、テンションがガタ落ちになる。

冬はもう、言うまでもない。屋外だけでなく屋内ですら凍えそうになる。あと寒いと基本的に気持ちが落ち込む。忙しさ的にも、「大詰め」感を醸し出してくるのでやめてほしい。新年度への道が見えてくるのもとても厄介。

 

清少納言になってしまった。「春は」の下位互換。

「普通」は幻想である―原宿の女王と電子の歌姫

 人間は必ず3つの山のうちどれかに属するという話を聞いた。

 3つの山の名前は、ADHD型、ASD型、LD型だという。現在、アルファベットで略されているこれらは、「発達障害」と呼ばれる発達上の偏りを指す。

 以下、本の受け売りのつもり。誤解などあったらゴメンね。

 『子どものための精神医学』によれば、人間の精神発達は「認識(社会的・文化的な意味の理解)」と「関係(周囲の人々と対人関係的・社会的にかかわること)」の二軸でとらえることができるという。この二つは互いに支え合いながら進んでゆき、発達はこれらのベクトルとしてあらわれる。発達の分布を模式図にしたとき、社会的平均の中央部に密集している群は「定型発達」と呼ばれる。要するに「普通の人」である。そこから一定以上外れたところにいる人々を「発達障害」ととらえる。

 この本では、平均よりも「認識」の発達におくれをとる群を「知的障害」、「関係」の発達におくれをとる群を「自閉症スペクトラム」と呼んでいる。また、自閉症スペクトラムの中でも、認識の発達の違いにより、アスペルガー症候群高機能自閉症自閉症、という風に従来の呼び名を記している。

 自分がこの本を読んで(まだ読みかけなんだけど)一番印象的だったのがこのように二つの軸で精神発達をとらえるモデルだ。なぜかというと、これまでは「普通の人」と「発達障害をもつ人」がその“あらわれ”により線引きされているイメージだったのが、このモデルでは定型発達と発達障害が同一平面上にとらえられていたからである。

 「自閉症スペクトラム」という呼び名ができたことで、発達障害の領域において連続性をみとめる発想にはなじみができたものの、未だに定型発達と発達障害の間には厳然たる壁がそびえたっていると感じていた。しかし、この二軸モデルではすべての発達を連続的に捉えている。一読者としての意識の問題かもしれないが、これは画期的な考え方だと思う。発達障害をもつ人とのかかわりを再考する見方にもなろうし、逆に、定型発達の人の抱える“偏り”を考える際の一助となるだろうからである。

 

 さて、話を本題に戻そう。こうした捉え方をふまえれば、人間が必ずADHD型、ASD型、LD型のどれかに属するという考えも納得がいく。基本的に「普通」なんだけどどこかそそっかしく集中力に欠ける人もいれば、社会で生活できているけれど妙に細かいことを気にし対人関係に悩んでいる人、前述の項目には当てはまらないけれどなんだか文字を読むことが不得手である……などなど様々なケースが想定できる。もちろん、これらの例もまだ極端な話で、実際には違和感すら覚えない“偏り”である可能性もある。

 突き詰めれば、「普通の人間」など存在しないのではないかと思う。人間にあるのはあくまで「平均」であり、「普通」という概念は社会的・文化的なスタンダードに合わせて大多数の個人が自らをチューニングすることにより生まれているに過ぎないのである。

 

 きゃりーぱみゅぱみゅの「もんだいガール」という曲がある。自分はふだん彼女のことを名前を発音しにくいカワイイ子というくらいにしか思っていないのだが、この曲だけは異常に好きだ。なにしろ、歌詞が良いのだ。出だしの歌詞が特に秀逸である。

 

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だれかを責めるときには

「みんなとちがう」というけど

毎回「みんな」にあてはまる

そんなやつなんているのかよ

 

 一見すると当たり前のことを極めて平易に表現しているようだが、なんと本質をとらえた一節であろうか。

 彼女ほどの市民権と知名度を誇る存在が、このように生きづらい人間を救済するかのような詞を、キュートな声で唄いあげていることは革命にも似ている。だから、一種の麻薬にすらなりうる。自分はこの歌詞を聞きたいがために「もんだいガール」を聞く始末である。

 「そんなやつなんているのかよ」という挑発的な言い方は、変わり者として生きてきた者の溜飲を下げてくれる。このあと、サビにおいても「普通になんてなれないでしょ」と開き直ってみせる姿勢も“痺れる”としか言いようがない。

 

 もうひとつ、「普通」と「変」を考えるときに聞きたい曲がある。ピノキオピーの「シックシックシック」だ。

 

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 ボカロ曲です。すいませんね、“コテコテ”で。この話の流れで、となるかもしれないが、この曲で間違いないです。これは「生きづらい人」向けベストテン(自分調べ)に入る一作。

 

お前ら 一切合財 シックシックシック

あっちの言い分じゃ ぼくがシックシックシック

 

 「変な人」から見たら「普通の人」だって変なのだ。けど、「普通の人」からすればやっぱり自分は変だってことも知ってる。変な人は尊敬されるか嘲笑されるか、いずれにしても「普通コミュニティ」からは疎外されてしまう。そんな怒りと哀切が入り混じる感情が「お前ら一切合財」という乱暴な表現を導き出しているのではなかろうか。

 この曲、「ザ・ボカロ」といわんばかりの漢字多いゾーンなどもあるのだが(ボカロ曲によるボカロ曲のパロディなのかもしれないけど)、「もうちょっと器用に生きれたらいいのにな」「もういっそ孤独が薬ならいいのにな」といった、ある種の人間にはザクザク胸に刺さるフレーズがあり、持ち前の不器用さから孤独を友としている自分などはこの辺りで骨抜きにされた。

 この曲も、最終的には「もうみんな病気だよ」と全員が狂っているのだという示唆にたどり着く。

 人間なんてみんなヘンなのである。もちろん、ヘンさが際立っている人もいれば目立たない人もいるから、普段は「変な人」と「普通の人」とは線引きがなされているのだが。

 一応弁解のために(誰に向けての?)書いておきたいのだが、これは「常識」とはまた別の問題である。常識とは社会的文化的やりとりの中で同一集団内で守られてきたマナーであり、その秩序を乱すことまで肯定したいわけではない(おかしな"常識"もあるんだろうけど)。

 

 いささか記事に尻すぼみ感が出てしまうが、書きたいことをあらかた書いてしまったので最後に祈りだけ捧げておく。

 毎回「みんな」に当てはまるそんなやつなんていないし、もうみんな病気なのだから、変とか普通とか、そういうことで溝ができない世界になればいいのに。

 

 まあ、こんな風に普通とか変とかにこだわる自分が、いちばん溝を作っているのだろうけど……。

 

Negicco「愛は光」と理想のアイドル

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 え、いや待って待って、何この名曲。

 バラード曲調に静かなムードのMV(音楽全然詳しくないのでわかんないんですがこういうのバラードって呼んでいいんですか?)。一見するといわゆる「アイドルソング」には思えないこの一曲は、まさに「アイドルの歌」である。

 

 ここからは、どこがどう「アイドルの歌なのか」、歌詞に沿って書いていく。

  あまりに名曲だからすでに言われてることばっかだと思うけど、自分が書きたいので書きます。

 

 

「この舞台から臨むフロアは

 まるで小さな銀河

 サイリウムが儚く揺れてる

 ひしめきあう星の群れ」

 

 アイドルが舞台上から客席を眺めている様子が想像できる、出だしの歌詞である。

 この部分の何がすごいかというと、「サイリウムが儚く揺れ」ている「フロア」を「星の群れ」が「ひしめき合う」「小さな銀河」に見立てている点である。いや、これでは歌詞をそのまま再構成しただけではないか。なので、ここから補足をする。

 ファンの象徴として「サイリウム」を選んでいるところがすごい。ここがサビの歌詞ないしタイトルにつながってくる重要な着想なのだ。ファンの肉体性を捨象し、サイリウムという「アイドルのファン」ならではのアイテムによって詩的な光景を喚起させているのは見事と言うほかない。「儚く」「揺れてる」という語の選択も、幻想性を高めるのに一役買っている。

 そして、この歌詞を引き立てるのがスローテンポで静謐な演奏だ。この歌詞からコンサート中の舞台からの景色ということがわかるのだが、アイドルのコンサートは大体の場合「盛り上がる」ことが基本にあるはずである。つまり、その場の体験としてはダンスや歌、歓声などでドキドキワクワクと動的に繰り広げられているであろうコンサートを、「愛は光」の中では、詞と曲の相互作用によりあたかもスローカメラでアイドル視点のコンサートを回想しているかのような静的な映像として提示しているのである。

 

 

 

「ダイヤモンドも

 ガラスのビーズも

 光があるから輝くの」

 

 ダイヤモンドは、言わずと知れた宝石の王様である。簡単には割れることのないその硬度で有名であろう。対して、ガラスは宝石に比べて高価でもなく、衝撃を加えれば割れてしまう物質だ。日常の生活空間に存在するものでもある。そんな二つの物質の共通点として、「光があるから輝く」ということを歌詞では挙げている。

 自分はNegiccoにわかなので過ぎたことは言えないのだが、この曲をNegiccoが歌っている以上彼女らとは切っても切れないものであると思い、触れようと思う。

 Negiccoは、2003年に結成された新潟在住のアイドルユニットだ。「にいがた観光特使」を務める彼女らは「ご当地アイドル」に分類される。活動こそ全国規模だが、彼女たちは「新潟」という地域に根ざした存在なのである。身近なアイドルと言い換えてもいいかもしれない。

 語弊を恐れずに言えば、彼女たちは「ガラスのビーズ」である。しかし、彼女たちは光を受けて「ダイヤモンド」と同様に輝く。そこが、この歌詞の優れているところなのだ。もちろん、ファンは彼女たちのことをダイヤモンドとして応援しているだろうから、外野があーだこーだ言う筋合いはない。しかし、そんな「ファンの光」こそ、彼女たちが「輝く」源となっているのだということについて、サビの歌詞では紡がれている。

 

 

 

「ああ、わたしが月なら太陽はあなたよ

 光は愛、愛は光ね

 それこそが本当のことです

 ああ、わたしだって太陽

 あなたを照らしたい

 授かった愛を輝きに変えよう」

 

 控えめに言って最高(唐突な脳溶け)。

 アイドル視点の詩であることが出だしの歌詞で示唆されているから、「わたし=アイドル=Negicco」「あなた=ファン」の構図がしれっと成り立っているのも心にくい。ファンからすれば、アイドルが太陽でファンはその光を受けて元気をもらう、みたいなイメージなのだが、この曲では「ファンの愛=光を受けてアイドルが輝くのだ」という逆転現象を提示している。もちろん、この逆転自体は目新しい発想ではない。けれど、Aメロでサイリウム=ファンを星に見立て、Bメロでガラスのビーズが光を受けて輝くという世界観を前提に、サビの最初に「わたしが月なら太陽はあなたよ」と言ってのけるこの構成力、マジでパナい。歌詞でありながらこの論理展開の鮮やかさが「愛は光」の魅力なのである。そして、「わたしだって太陽 あなたを照らしたい 授かった愛を輝きに変えよう」というこの歌詞。ファンに照らされて輝いたアイドルは、その輝きで今度は「太陽」として光りたいと願う。いや、最高の永久機関か??一生お互いに照らし続けてほしい。ここには理想のファン・アイドル関係が描き出されている。

 1番ですでに息切れしそうな勢いで語っていますが、2番もかなりの熱量で話したいので深呼吸を挟みます。吸って―、吐いて―、吸ってー、吐いて―。

 

 

 

「ピンライトが外れたら闇

 時々不安になるの

 でもペンライトで足下を照らして

 寄り添ってくれる人がいる

 大丈夫」

 

 ピンライトというのは言うまでもなく舞台上のアイドルに注がれるもので、それが外れたということは舞台から下りている時ということだ。その間は、まるで小さな銀河のようにひしめいていたファンのサイリウムは眼前からはたと消え失せてしまう。それは物理的な光の消失でもあり、心理的な愛の消失でもある。だから、アイドルは「アイドルとしての自分」が歩むべき道に迷い、不安になるのである。

 けれど、舞台にいない間だって、ファンは彼女たちに「寄り添って」いる。実際の舞台ではなくとも、その存在は「ペンライト(≒サイリウム)」としてイマジナリーな世界において光の花道を照らし出すのだ。ピンライトとペンライトで韻を踏みつつアイドルとファンを対比させているところも、また粋である。

 

 

 

「真珠のように

 時間をかけて

 育んできた夢

 これからも ずっと」

 

 ひとことで言うと1番のBメロに対応しているところがマジで最高です(盲目)。

 ダイヤモンドに引き続き、今度は「真珠」を引き合いに出している。宝石つながりイイネ。「真珠のように時間をかけて」。なんとなくは聞いたことあるけどちゃんとは知らないなと思ったので真珠のでき方を調べてみた。

天然真珠と養殖真珠|MIKIMOTO PEARL ISLAND

 真珠質が分泌されて層状になって成長したものが真珠らしい。分泌、層状、というワードからなんとなく時間かかるってことはわかった(文系脳)。

 ついでにウィキペディアによると、日本は真珠の産地として有名だったらしい。真珠の質量単位は日本語の「もんめ」なんだけど、これはmommeとして国際的にも使われてるらしい。真珠が日本との結びつきが強いってことも、なんか意味をもちそうですね。

 「時間をかけて」というところはNegiccoの活動期間の長さなどにもかかわってくるところでしょう。アイドルごとにもつ「歴史」みたいなものは、あまり外野が言及することではないので詳しくは黙ります。でも、自担グループに置き換えて想像すると「真珠のように時間をかけて」という歌詞には落涙必至ですね(ドルオタ)。

 サビの歌詞は1番とほぼ共通なので割愛します。同じってことも、もちろん意味があるんだろうけどね。

 

 

 

 大サビの最後の歌詞。

 

「授かった愛を輝きに変えるよ

 燃え尽きるその時まで」

 

 「変えよう」という意志から、「変えるよ」という呼びかけへの変化。アイドルの視点で始まったこの曲は、最後にその目線をファンに向ける。輝きに変えるよ、と言われたとき、私達はふっと自らをファンの立場に見出す。

 なんということだ。ありのまま今起こった事を話すぜ。おれはアイドルの視点で世界を見ていたと思ったらいつのまにかファンの視点に戻っていた。アイドルからファンを見ていたと思ったらファンからアイドルを見ていた……。いや、今までだってさんざんサビで「あなたよ」なんて言ってたじゃんって話なんですけど、最後のこの「変えるよ」が一番呼びかけとして““効いた””んです。だから、ここはマジで純粋に個人的な感想です。

 

 

 

 最後に、曲全体について感じたこと。

 この曲はNegicco結成15年目を記念して発売されたベストアルバムに収録された曲である。これまで述べてきたどんな御託よりも、この事実が「愛は光」のメッセージ性を高めているのではないかと思う。

 自分がこの曲に出会ったのは、堀込高樹氏の書く曲と詞が好きだったからで、Negiccoにはそれまで、危険日チャレンジガールズとコラボしたとか、坂本真綾のトリビュートアルバムでプラチナを歌っていたとか、それくらいの認識しかなかった。

 最初は、堀込高樹氏の作った曲ということなら、と思って聴いただけだった。最初は。けれど、この曲は紛れもなく「Negiccoの歌」だった。Negiccoの15年記念でしかありえない歌だった。彼女たちが築いてきた文脈の中でこそ意味をもつものであり、自分などが付け焼刃の知識だけで読み解けるものではないと思う。それでも自分が心惹かれたのは、「Negicco」というアイドルに即した、いわば特殊性を持ち合わせた曲にもかかわらず、「理想のアイドル」としての普遍性を見たからである。

 あなたたちからの光を受けて輝いているのだと言ってくれるアイドル。つらく苦しい闇の中でも、ファンの愛を信じて立ち止まることなく歩き続けるアイドル。燃え尽きるときまで惜しむことなく輝き続けると言ってくれるアイドル。ファンに感謝し、ファンのために輝く。それは、ファンが求める理想のアイドルではなかろうか。

 アイドルは、実際は生身の人間だから、理想通りの姿でないこともあるだろう。だが、たとえ現実の姿がすべて美しくなくても、アイドルは「アイドル」として歌い踊る。アイドルが唄う歌に理想のアイドルが示されていることは、アイドルとしてのひとつの完全性のように感じる。

 「愛は光」を、アイドルを照らしているすべての人に聞いてほしいと思う。

 

 

 

追記

 今日も今日とて聞いてたんですけど「燃え尽きるそのときまで」ってこれも星の比喩を前提にしてるのでは?と気づいた すごい 星が燃え尽きるのにかかる時間なんて気の遠くなるような長さで、いつかは終わるときが来るけれどそれはずっと先だよ、という意味にもなる、たったこれだけの言葉で

 あと星と時間といえば「幾星霜」って言葉があるけどコトバンク先生によると「苦労を経た上での、長い年月」ということらしいからこれもNegicco感がすごい